実る程こうべを垂れる稲穂かな

思ったことを気まぐれに書きます

もういいかい、もういいよ

【「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ】

俵万智さんの歌である。中学生の頃の担任が国語の教師で、俵万智さんが好きらしく、よく学級通信などに歌を載せていた。

この歌を初めて知ったとき、疑う余地なく「たしかに」と得心し、じんわりとあたたかい気持ちが広がったことを覚えている。

 

今、とある大きめの団地に住んでいるのだが、放課後の時間になるとマンションの棟と棟の間にある遊び場から子どもたちが元気に遊ぶ声がベランダを越えて聞こえてくる。

 

「みんなしゅーごー!」

と聞こえたかと思えば、かくれんぼをしているらしく、

「もういいかぁーーい」

「まぁだだよ〜」

「もういいかぁーーい」

「もういいよ〜」

という声が聞こえてくる。

 

 

 

いつの世も、どの世代にも少なからずいじめに類するものはある。

あからさまないたずらや嫌がらせであることもあれば、陰でこっそりとじわりじわりとダメージを与えていくようなものもある。

とくに近年は、SNSの利用に伴うものが増加しているというが、閉鎖空間になればなるほど周囲の目は届きにくくなるだろう。私が中高生の頃にLINEがなくてよかったと心底思う。

 

そんな中、近所から子どもたちの仲良く元気に遊ぶ声が聞こえてくると、ほっこり幸せな気持ちになる。

 

ただ、

「もういいかぁーーい」

と聞こえた後、

「もういいよ〜」

が聞こえてくるまでの少しの間に私は少々緊張する。

 

「もういいかぁーーい」

と言った子どもにとって

「まぁだだよ〜」か「もういいよ〜」

が返って来なければ、その瞬間、かくれんぼという遊びはその子どもにとってトラウマ級の経験になるかもしれないからだ。

だから、「もういいよ〜」が聞こえたときの安心感といったらない。

 

別に私自身はいじめられた経験があるわけではないが、若干HSP気味で特に聴覚面が敏感なようなので、耳からの情報により強く反応してしまうらしい。

 

何はともあれ、

【「もういいかい」と問いかければ「もういいよ」と答える人のいるあたたかさ】

を日々感じている今日この頃。

 

大学卒業するとパッタリ更新しなくなる人いるよね

私は、TwitterFacebookInstagramなどたいていのSNSには手を出している。

 

特にTwitterは高校生だった2010年3月に登録し、アカウントをいくつか増やしつつかれこれ11年も続けている。

11年も続けていると、なかなかTwitterも変化したなと思う。

変化した部分を挙げればキリがないが、広告が増えてしまったことはかなり残念である。Twitterの特徴であるリアルタイム性や素朴なつぶやきを楽しむという醍醐味を阻害されている感は否めない。

また、「お気に入り★」が「いいね♥」になってしまったときは本当にショックだった。ツイートに「よい」も「よくない」もないのだ。ユーザーがコレクションしたい、と思ったツイートをそっと「お気に入り」の箱にしまうのがよかったのに。

ユーザー数の増加で、いいねやリツイートの数がインフレした。以前は、1000のお気に入りやリツイートでも十分すごかったが、今では「バズる」といえば1万以上が当たり前である。流れてきたツイートをしっかり読むかどうか、「いいねまたはリツイートが1万以上」を無意識に基準にして決めているフシさえある。

 

と、こうした様々な変化を甘受しつつも私が今でもTwitterを最も愛しているのは、やはり140字という文字数制限と「つぶやき」という概念を気に入っているからだ。

 

ダラダラと文字を連ねられるなら、言葉を見直し厳選するプロセスは軽視されるだろう。文字数制限は、140字以内でいかに自分の考え、思い、気持ちを表現するか、という美学をユーザーに求める。よくTwitterは俳句や川柳、短歌の文化に通じるものがあると言われるが、まさにその通りだと思う。

 

そして、「つぶやく」という言葉には押し付けがましさがない。FacebookInstagramが少し苦手なのは、キラキラ、シクシク、ドロドロ・・・様々な感情を友達やフォロワーに見せつけるために投稿されていると感じるからだ。一方、Twitterのつぶやきは基本的に自己完結であり、誰かに見せつけたり反応を期待したりして投稿されたものではない。この点が両者の決定的な違いではないだろうか。もちろん、Twitterにも例外はたくさんあるが、いいねを押すことが半強制的・脊髄反射的であるInstagramとは一線を画していると考える。

 

 

今日から新年度。新生活の始まりである。

大学や大学院を卒業した人たちは、新社会人として働くことになる。

私がTwitterでフォローしている大学時代の友人などはほとんどが社会人になってしばらくすると、パッタリとつぶやかなくなってしまった。

コンプライアンス的な問題とか、単純に忙しくて時間がないとか、単調な日々でつぶやくようなことがないとか、別に誰かに知ってほしいようなことはないとか、社会人専用のアカウントを作ったとか、人それぞれ様々な事情があるのだろうが、大学時代はわりと更新していたのにパッタリと更新されなくなったアカウントをたまにフォロー一覧から覗いてみたりすると、すっかり時が止まってしまったつぶやきの累々に出会う。そして、なんだか切ないような気持ちになりつつ、皆大人になったんだね、と誰の目線だか分からないことを思ってみる。

 

これまでTwitterをやってきた新社会人の皆さんには、忙しい日々が始まると思うが、ぜひコンプライアンス的な問題には気をつけつつ、つぶやき続けていただきたい次第。

キラキラする必要がなくて、結構いいガス抜きになると思うよ。

 

猫のように生きて、桜のように散りたい

暑くもなく、寒くもなく、私の好きな季節がやってきた。

一年中、春か秋だったらいいのに、といつも思う。

春は花粉があるのでできれば3月下旬から5月下旬の気候でお願いしたい。春からは夏に向けて日が長くなり、気温もぐんぐん上昇する。そんな、ポジティブな空気に包まれる春から初夏が好きだ。

食欲・読書・運動。秋には様々な枕詞がつくが、私の場合は「キンモクセイの秋」。緑の葉の間にびっしりと咲く小さなオレンジの花から放たれるあのなんとも言えない幸せな香りをどうにかして封じ込めておきたいと毎年思う。冬に向けて徐々に寒さを増す中で切なさとともに秋の終わりを告げるのがキンモクセイだ。

 

 

猫と桜。

猫と桜はよく似合う。猫はこたつとみかんだろ、と言われそうだが、なんだかんだ言って猫は野生だから野や山を、時にのんびり、時にぴょんぴょんと歩き回っている方が似合う気がする。もちろん家の中の猫もこの上なく愛している。

猫ほど我々人間の心を掴んで離さない存在はない。飄々として誰にも媚びないが、時に甘える仕草で人間を操るあの絶妙なバランス。そっけなく見せておいて実は面倒見が良かったりする。自分が「かわいい」ということを心底理解し、その瞬間やりたいことだけをやる。まさに「自由気まま」という言葉を具現化したような存在である。

 

 

桜は一週間ほどの間に一気に咲き誇り、一気に散り去っていく。葉桜になってしまった木を見ると、取り返しのつかないことをしてしまったような、恐ろしいほどの喪失感を覚える。花ならば、もう少し長く咲いていても良いのではないか、と地団駄を踏みたくなるような気持ちにさえさせられる。

だが、桜はその一瞬の美しさに全身全霊をかけているからこそ、ここまで心を突き動かされるのだ、と言えるだろう。要するに希少価値だ。一ヶ月も二ヶ月も桜が咲いていたなら、二ヶ月立つ頃にはすっかり見慣れてしまってありがたみもなく、散ってしまっても、あぁとうとう散ったか、くらいにしか思わないかもしれない。

桜もまた、猫と同様に自分の美しさを熟知し、かつ最も愛され惜しまれる形で咲き、散っていくのだ。

 

猫と桜はあざとい。実にあざとい。

「あざとくて何が悪いの?」というテレビ番組がある。

答えは何も悪くない、だ。

唯一の注意点があるとすれば、悪意の有無だ。そこに悪意があるならば、あざとさではなく、狡猾さになってしまう。自分のためだけど誰も不幸にならない、純粋無垢、素直さが大事なのだ。

私が思うに、下手に再現ドラマを作るよりも、猫の生態を分析し、桜の美しさの理由を解析した方がよっぽど本質的なあざとさに迫れるのではないか。

 

 

猫のように生きて、桜のように散りたい。

これは数年前からの私のモットーだ。

現在までのところ、猫の生態模倣、擬態についてはおおかた成功している。これは、優しい夫の存在、専業主婦という立場により実現している。ただ、現実はそう甘くない。奨学金という足枷があるからだ。奨学金を払ってまで進学したからこそ夫に出会えたわけだからどうにかして返さねばならないだろう。人間はツラいよ…。

桜のように散るのはそう簡単ではないかもしれない。自分の死に方はなかなか選べないからだ。とりあえずできることと言えば、ありきたりではあるが、日々悔いなく、何にも執着せず生きることくらいだろうか。

 

 

―――吾輩は猫になる。名前は桜。

 

 

 

何かに誓わないといけないのか?

結婚式や披露宴に関しては数年前から思うところが多々あるので、ここで書き殴らせていただきたいと思う。

 

コロナ禍で業績が落ちた業界を挙げれば枚挙にいとまがないが、そのほとんどが突き詰めれば生活「非」必需品・サービスを扱っているといっても過言ではないだろう。

そして、中でも最も衰退した業界の一つがブライダル業界だろう。ブライダル業界はコロナ禍のずっと前から衰退しつつあったが、コロナ禍でトドメを刺されたようなものだ。

 

私は昨年8月に入籍したが、結婚式も披露宴もしていない。いわゆるナシ婚である。仲の良い友人や夫と出会うきっかけとなったサークルの人たちなど、ごく小規模の、食事会同然の場でプレゼントをもらったりケーキを出してもらったりはしたが、数十人以上の規模のものは行っていない(だから厳密には、「ほぼナシ婚」)。

我々も一応、ゼクシィを買ってみたり、式場を調べてみたりと一通りのことは本気で検討してみたが、結局どれも心からやりたいと思うには至らなかった。

 

新車が買えるほどの大金を払い、手間と時間をかけて準備をした挙げ句、本番でやることと言えば、キリスト教徒でもないのにムニャムニャと神に愛を誓い、ファーストバイトとかいう無駄にでかいスプーンで新婦が新郎にケーキを食べさせるイベントをすることになんの意味があるのか。

まして、親族や友人を長距離移動させた上に、新入社員の給料の手取りの6分の1以上にもなるお金をカツアゲし、約3時間拘束しつつ、新郎新婦らとの交流はほとんどない。そんなことは申し訳なさすぎて私にはできないと思った。

 

この業界がボッタクリなのは確かにそうなのだが、私がナシ婚を選んだ理由は金銭面が大きな理由ではない。

足元を見たボッタクリというのはどの業界でも多かれ少なかれ存在するのであり、その金額を支払っても本人たちにとって金額以上の効用が得られるのであれば、経済の原理として誤りではない。

 

私が結婚式・披露宴にはボッタクられるほどの価値がない、と感じた背景には次のようなことがある。

 

 

「人が人生で主役になれるのは人生に3回だけ。そして唯一記憶があるのは結婚式だけ」というのがこの業界の殺し文句のようだが、結婚の挨拶の前に行った美容院で美容師からこの言葉を初めて聞いた私は全く心を動かされなかった上に、こう返答した。

「毎日自分が主役だと思ってるので大丈夫です」

その美容師は「え〜お客さん、そういうタイプじゃないでしょ〜笑」と言ったが、そんなことは意に介さない。

 

冷静に考えて、「人が人生で主役になれるのは人生に3回だけ。そして唯一記憶があるのは結婚式だけ」なんて、そんな人生クソくらえだと思わないのか。毎日とは言わないまでも、日々楽しく幸せに暮らさなくてなんのために生きているというのか。

 

 

じゃあ披露宴はしなくても式だけ挙げてみるか、と思った時期もあったが、ではなぜ特に信仰する宗教のない私がキリスト教神道の神に愛を誓う必要があるのか、という疑問が沸き起こった。

確かに、こういった儀式は通過儀礼として深層心理的な域で何かしらの意味があるのかもしれない。しかし、私たち夫婦にはそんなものは必要ないように直感した。

一瞬の誓いの言葉より重要なのは、日々の言動の積み重ねである。愛ある言動の積み重ねが、やがて振り返ったときに大きな愛となるのではないか。その点私たちはすでにそれができているし、これからもできる自信がある。

…とすれば何者かに誓う必要はない。

 

これまで何度か友人や親族の結婚式に出席したことがあるが、皆一体何を思いながら神に誓いを立て人前でキスなどしているのだろう、と非常に滑稽に感じた。

ともすると、その旨を新郎新婦張本人に尋ねたくなってしまい、衝動を抑えるのが大変だった。

何かに誓わなければ維持できないような愛ならば、それはままごとにすぎないのではないか。

 

 

とにもかくにも、こうした理由から私は「ほぼナシ婚」を選び、小規模の食事会を何度か行ったわけだが、これが非常に満足度が高かった。

一人ひとりとじっくり話ができる上に、お互いの金銭的・時間的負担も必要最小限で済む。

私たちだけが場の中心になるわけではなく、程よいバランスの中にお祝いムードが漂う。

自分たちが主催の場合(幸せの押し売り)と異なり、友人主催の場合、心からの祝意を感じられる。

こうした、無駄な装飾、演出がなく、シンプルに削ぎ落とされた空間にこそ、本質的な幸福が広がることをこの身を持って体感した。

皆、虚像にばかり囚われていないで、もっと本質を見つめてみたらいかが?

 

 

しかし、このご時勢にも関わらず私の周りでもご丁寧に結婚式や披露宴を行う者は少なくない。

やるのは構わんがやるならひっそり厳かにやってくれ。

間違っても遠方の友人にビデオレターなど要求するな。

こちらの祝意は本人たちに十分伝わっているはずだ。

大切な友人なら大きな負担を強いる要求をしないことこそ愛だ。

以前、さほど親しくない友人の結婚式のためにムービーを撮らされたが、その後完成したムービー本体や結婚式の様子を知らされることはなく、挙げ句の果てにその夫婦は挙式の数カ月後に離婚したというお粗末過ぎる話を聞いてほとほと呆れたことがある。招待されなかっただけマシと思うしかない。御祝儀払ってご足労した人たち、乙です。

また、比較的最近では、出演者それぞれが5〜6個ほどの素材を撮影し、それを編集者が編集して一つのムービーにするという大変めんどくさい依頼が新郎新婦の友人とやらからあった。新郎新婦とは親しく、結婚式が延期・縮小されると聞いて個人的に食事をして祝ったばかりだったので、私にとってはさらに蛇足に思えた。しかし、断るわけにもいかず引き受けたが最後、数時間は要するとんでもなくややこしい作業を強いられるに至ったわけである。

以来、ビデオレター系の依頼にはかなり躊躇してしまう。きっとコロナ禍でこういう依頼を受ける人は増えていることだろうと思うが、心中お察しいたします。

 

 

というわけで、本日またしてもビデオレターの依頼がきたので、ムシャクシャして書いた次第。

 

 

 

あ、ちなみにお恥ずかしながら夫というのは、この記事でお別れしていたお相手です。

今、ブログを振り返ってみてこんな記事を書いていたことに驚くくらいには浦島太郎です。 

人生何があるか分かりませんね…。

minotare.hateblo.jp

つわり

いまだかつて、これほどまでに自分の「お腹の虫」と対話したことがあっただろうか。

 

妊娠15週半ば。来週からやっと安定期に入る。

いつまで続くのか分からず、終わりの見えなかったつわりが、先日やっと終わったようである。

よく見かける、「出口の見えないトンネル」というのはまさにその通りだった。

私の場合、「ある日突然、霧が晴れるように」ではなかったが、確かに体調が改善していることは感じた。

そこで、初めての妊娠の初期を無事に乗り越えたこのタイミングで、これまでを少し振り返ってみたい。

 

 

昨年8月に結婚し、10月に夫との同居を始めて以来、なんとなく妊活を意識していた私は、生理前のちょっとした体調の変化に敏感だったことと、長らく生理不順だったため基礎体温を測っていたことから、生理が遅れて2日目で検査薬を試し、妊娠が分かった。

しかし、あまりにも判明するのが早すぎたため、すぐに病院には行かずただただソワソワする日々が続いた。

しかもこの時期は、受精卵の染色体異常による化学流産も珍しくないという。そのため、喜び半分、不安半分というなんとも落ち着かない日々だった。

 

5週で初めて受診し、胎嚢を確認、7週で心拍を確認した。

 

つわりは、想像していたようないきなり「うっ」となってトイレに駆け込むというものではなく、生理前にも感じるような、ひたすら泥のように眠る「眠りづわり」から始まった。

そのうち、グリルで魚を焼く匂いで気持ち悪くなり「匂いづわり」、空腹を感じるとなんとなく気持ち悪くなる「食べづわり」と順調につわり街道を歩んできた。

とくに食べづわりは、気持ち悪くなり嘔吐(えず)くものの、実際に吐くことはなく、日々検索魔になりつつも「つわりとはこういうものなのか…」と自分の身体を若干持て余していた。

とにかく、何なら食べられそうか、何を食べたい気分なのか、ということを頭や心ではなく、終始自分のお腹(胃袋)に問いかけていた。人としての尊厳を胃袋に乗っ取られいるような気分だった。

そして胃袋の答えはたいてい、「肉」および「ふりかけご飯(主に深夜0時前後)」であった。

 

ところが、11週の中頃、朝食に「牛乳・チーズ・ヨーグルト」という乳製品三兄弟を食べて横になっていたところ、今までとは少し違う気持ち悪さを感じた。

起き上がり、嘔吐きながら洗面台に向かい、「あ、これは出るやつ」と悟り、トイレに入るととうとうリバース。「吐きづわり」のバッジも獲得。

しかし、あまり嘔吐しても食道や胃に良くないのではと思い、我慢できる範囲で我慢することにした。

その後も体調は一進一退しながら徐々に良くなっていき、結局リバースしたのは4回だった。 

…と、そんなこんなで、五大つわりのうち、「よだれづわり」以外を見事コンプリートし、私のつわりは終わりを迎えた。

 

振り返ってみると、妊娠悪阻やそれに近い状態になる妊婦さんに比べれば随分軽いつわりだったように思う。実際、私の祖母は、それはそれは酷いつわりで起き上がることもできず、這うようにして移動していたらしい。

だが、苦痛の感度は十人十色であり、つわりの症状も人それぞれかつ妊娠の度に違うという声もある。そう考えると、そもそも比べること自体に特に意味はないのかもしれない。なんにせよ、お腹の子供が元気にすくすく育ってくれればそれ以上のことはないのだ。

 

 

何より助かったのは、自分自身が働いていないため好きなだけ寝られること(笑)、そして、夫が料理・洗濯・掃除・ゴミ出し…etc.なんでもやってくれること。

初めの頃こそ、「どんだけ寝るの」だの「何もせんやん〜」だの宣っていたが、「ホルモンのせいだからどうしようもないの」、「何もしないんじゃなくて、できないの」と根気強く言い返しつつ、なにかやってくれたら感謝するということを繰り返すうち、私好みの「黙ってよく動く夫」が完成していた。

ただ、夫があまりにも当たり前のように家事などを回し始めたら、それはそれで「もしかして私いらない?笑」と思うこともしばしば。自己肯定感だだ下がりの日々でした(笑)。わがままか。いや、体の中で人間を製造中なのだから仕方ない。

 

とにかくこうして、未知の妊娠初期を乗り越えることができた。

出産の恐怖や産後の子育ての不安など、今後も考えることは尽きないが、やっと迎えた安定期を謳歌しつつしっかりと準備していきたいと思う。

 

 

※余談だが、Twitterなどでつわりについて検索すると、「吐き気」や「嘔吐く」と表現したいと思われる投稿に「嗚咽」と表記されているものが散見される。語感だけで使用しているものと思われる。日本語は誤用が定着していく言葉が少なくないが、さすがにこの誤用は看過できない。ぜひ正確な意味をググっていただきたい。

 

適応障害になりまして。

一年ほど書いていなかったこのブログ。

今改めて読み返すと予兆しかなくて我ながら笑ってしまいます。

最初っから病んでるやろこれ(笑)。

 

この4月に仕事で異動になったわけですが、ものの1ヶ月ちょっとで心身の調子を崩しまして、ただいま休職中です。

 

心療内科で「適応障害」という一応の診断は頂いたわけですが、これは予期していなかったわけではなく、むしろ想定済みの結果とでも言えるでしょう・・・。

 

だってそもそも最初からこの仕事に「適応」していなかったんですから。

まぁ遅かれ早かれ退職するつもりだったのが、なぜか休職ということにはなっていますが。

 

しかしなぜ、適応しないまま2年間を過ごせたのか。

 

それはこの4月の異動だけを望みに自分をだまし、ごまかしてきたからに他なりません。

それと人間関係が良かったというのも大きいですが。

ただ、人間関係が良いからといって仕事自体を好きになれるわけではないですね。

 

前の職場で、2年後に高確率で異動になると予告されており、異動になればもう少し自分のやりたいことに近づけると思っていました。

すぐにそのものズバリの部署には行けずとも、いつかそこにスライドできるのではないか、と。

 

しかし異動してみて現実が見えてきたんです。

詳しくは書けませんが、それほどすんなりスライドできそうにはないぞと。

もちろん、与えられた環境でひたむきに仕事に取り組んでいれば、希望を聞いてもらえるようになるのでは、とも考えました。

 

でも、異動後の職場では、そうやって無理やり望みを見出すだけではこなせないほどの仕事が降って湧いてくるようになり、「なんで私は興味もないのにこんなことをしているのだろう」「なんのためにしんどい思いをしているのだろう」という想いで頭も心もいっぱいになってしまいました。

 

次第に仕事中、喉がつまったようになり、仕事終わりに職場から出た途端涙が溢れてくるようになりました。

夜は仕事のことばかり考え、不安と焦りで眠れず、少し眠れても早朝に目が覚める。

仕事のことを考えると恐ろしいほどの絶望感に襲われました。

最後に出勤した日には、仕事中にも涙が出そうになりながらなんとか堪えましたが、お昼ごはんは食べられなくなっていました。

 

異動したばかりということで、慣れればなんてことはないであろうルーチンワークも分からず、物の配置、電話対応、分からないことや困ったことを誰にどういう風に聞けばよいのか、また聞いてはいけないのか・・・などなど、考えることのオンパレードで最後の方はほとんどパニック状態でした。

4月の間こそ、「まだ1ヶ月目だし」ということで周りの方に聞きまくれたのですが、5月に入ってからは、さすがにある程度自分なりに調べてから聞くようにしなければ、と思い、そんな調子でやっていたらどんどん仕事は溜まっていく一方で何から手をつけていいのか分からなくなっていました。

私はもともと言動が比較的落ち着いているように見られるので、パニック状態なのも知られてはいなかったと思います。

だからこそ直属の上司や同僚にも気づいてもらえなかったのだと思います。

また、そもそも皆さん忙しいというのもあります。

 

それから、コロナの影響で飲みニケーションが全くなかったのも良くなかったように思います。

仕事だけの繋がりだとそれぞれのキャラクターがなかなか見えてこない。

ある程度分かっていれば、この人にはこういう風に対応しよう、この人にはこういうタイミングで話しかけよう、というように対策を立てられたと思うのです。

3月末に歓送迎会はあったのですが、これがめちゃくちゃ形式ばっていて、無礼講とはかけ離れていたため飲みニケーション的な効果はほとんどありませんでした。

なので、人一倍、人の目を気にする私が数十人の職場で逐一「この人はどういう人だろう」「どうやって話しかけよう」「こう思われたらどうしよう」とかやっていたら身がもつわけないですわな。

 

ま、そんなわけで大学・大学院生活に次ぐ数度目の人生の夏休みを頂いているわけでございます。

 

最近になってですが、日常生活に関してはだいぶ回復できているように思います。

 

ただ、復職は99.9999%無理だと思われます。

 

もうね、2年間よくがんばったよ、自分って感じです。

 

とりあえず、現時点でこれだけは声を大にして言うことができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やりたいことだけをやれ!

 

やりたくないことはするな!

 

 

 

 

 

仕事が暇

仕事が暇です。

 

そもそも、暇というのは仕事に関する不満のほんの一部でしかないわけですが、

とりあえず今日のハイライトは「暇」に尽きます。

 

暇だと考えなくていいようなことをあれこれ考える時間がたくさんあり、

それはたいてい精神衛生上、良い影響がないことは想像に難くないでしょう。

 

今の仕事はぶっちゃけ閑職なので、やりがいもへったくれもなく、

始業1時間もしないうちから時計とのにらめっこが始まるような日々です。

定時で逃げるように帰宅しますよ、っと。

これでも社会人2年目です。

 

Google先生で「仕事 暇 うつ」と検索するくらいには悩んでいます。

 

まぁこの仕事に就く前から長く続けるつもりはなかったので、

本気で転職は考えているわけですが、

それにしてもここまでのミスマッチもないだろうと思います。

自分で選んだことなので仕方ないですが。

 

学生時代に学んだことがここまで発揮できないとなると、

今までの人生はなんだったんだ、これからの人生どうすりゃいいんだ、

なんで妙な妥協をしてしまったんだ、いや、あの時はこういう選択しかできなかったんだ

とかなんとか自責と言い訳じみた言葉が脳内を毎秒毎分暴れまわってぐちゃぐちゃになっていくんですよね。

 

キャリアよりワーク・ライフ・バランス!!!

と、頑なに考えていた当時の自分を殴りたい。ちゃんと自己分析しろバカ。

めっちゃバリバリ仕事したい奴じゃないか、キミは。

 

あと、上下左右を気にして、各方面のご機嫌をうかがいながら仕事をするのは

めっっっちゃ嫌いです!!

できるけどやりたくない。愛想がいいときはだいたいかなり無理しています。

ストレスMAXになるまで耐えてある日突然プッツンしちゃうタイプです。

生来の一匹狼のくせに無理すんなって。

ちなみに、適職診断はほぼ毎回「研究者」が出てきます。

 

私の学歴からすると、到底候補にも上がらないような職なので、

数えきれないほどの人から「もったいない」と言われてきました。

そんなことは自分自身が死ぬほど分かっていて、2年近く自分を苦しめてきた言葉でもあります。

我ながらよく耐えているとは思いますが、ちょくちょく心は壊れています。

今回、こうして突然ブログを書いているのも何回目かの故障によるものです。

こうやってたまに言葉にして吐き出すことで、しばらくは凌いでいきたいと思います。

慢性的思考停止の恐怖

「思考停止」

この恐ろしさを自覚している人はどのくらいいるでしょうか。

私は今まさにこの恐ろしさを身をもって体感しています。

 

私はこれまで、常に予防線を張り、苦しむことから逃げ続ける生き方をしてきました。

様々なことに対して斜に構え、「自分ごと」として考えることを避けてきたのです。

いつからこのような癖がついてしまったのかはっきりとは分かりませんが、

自分に都合の良い解釈を重ねながら自分の課題に向き合ってこなかったことだけは確かです。

 

「こんなことに何の意味があるんだ」

「こんなことやったところで」

 

こういう枕詞を使っては、逃げることを正当化してきました。

 

「思考停止」は、心が傷つかないために脳が行う防衛策なわけですが、

これがすっかり常態化し、癖になってしまったら・・・

 

最終的には

自分では何も考えられない無気力・無責任人間

のできあがりです。

 

 

自分がこれまで何事もなし得ていない、そして今後、何かをなし得そうもない、と悟った時にはすでに思考停止症候群に陥っています。

 

これではダメだ、と気づいた時には、思考停止症候群から抜け出すのにかなりのエネルギーと時間を要する状態になっています。

 

 

まぁ、まさに今の私なんですけどね・・・(笑)。

 

今の私は、自分の責任において発言したり行動したりすることに対して、すっかり臆病になってしまっています。

人前で発表したり、発言したりしようとする時、「自分のような者が言うことには価値がない」という思考回路ができてしまっていて、それが緊張に拍車をかけ、頭が真っ白になってしまうのです。

 

 

完璧主義でネガティブ、人の目を気にしがちで、過去にとらわれやすい。

白か黒かはっきりさせたくて、グレーゾーンを許容できない。

 

だけど完璧な状態なんて到底たどりつかない。

完璧な状態・・・というより、正しくは「自分が納得できる状態」かもしれません。

しかし、自分が納得できるような完璧さなど、自分自身でも見えていない状態なわけです。

 

そして、「適当」「そこそこ」という言葉で形容されるような程よい状態を作り出せないことが続くと、頭も心もすっかり疲れてしまい、

 

最初からやらなければ失敗して傷つくこともない

 

という結論にたどり着いてしまいます。

ここからの脳の甘えっぷりは見事なものです。

私は、事あるごとに失敗しそうな状況を避けていくようになりました。

一瞬の間、傷つかないために私は多くのものを失ったように思います。

まさに、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、ですね。

 

社会人になろうとしている今、未来に対して希望をもって何かを語ることができない自分がいます。

主観を持つと同時に、ブレーキがかかる状態で、何かを思考しようとすると、もう一人の自分によって非常に強いブレーキがかかるからです。

リスクを恐れて小さくまとまっている自分にイラつく時は多々ありますし、小さくまとまっていたら成長なんかできないことはわかっているんです。

 

 

もっと未来に希望をもって、楽しみをもつことができれば―――

 

 

いや、「たられば」ではダメですね。

楽しむ覚悟、「幸せになる勇気」を持つことが第一歩だと思います。

最近は、毎日のように自分の不甲斐なさと無力さに打ちひしがれ、家では泣いたり吠えたりする日々ですが、目の前の課題にしっかり向き合って、一段でも上に上がりたいと思います。

わざわざ苦労するよりも、ただ一所懸命生きること

「若い時の苦労は買ってでもせよ」

という言葉はかなり使い古されたフレーズですが、この言葉に対して皆さんはどのように感じるでしょうか。

私は違和感を覚えます。この言葉に対する解釈は様々ありますが、それぞれ理解することはできます。しかし、すっきりと納得することはできません。

そこで、この違和感の正体について、「若い時の/苦労は/買ってでも/せよ」という4つに分解して考えてみたいと思います。

 

 

 

「若い時の」

まず「若い」という言葉の定義を確かめてみましょう。若いというのは相対的な状態を表しています。

〈客観的な定義〉

年齢がある一定水準以下であること(身体的な若さ)

特徴:年齢が若いほど体力がある

 

〈主観的な定義〉

実年齢に関わらず精神的に若々しいこと

特徴:素直である、謙虚である、考え方が柔軟である

 

さて、この言葉が指しているのはどういう状態でしょうか。 

 

字面だけで判断すると、ぼんやりとした基準で「実年齢の若さ」を指していると考えられます。

 

ここで一つ、重要な点について確認する必要が出てきます。

この言葉はそもそも、人が「成長すること」を前提としているという点です。すなわち、人は年をとるにつれて、何らかの方向に向かって変化していくことが暗に想定されています(ただし、その成長や変化の中身については人それぞれ違います)。

…とすると、成長・変化のプロセスの起点をどこに置くか、について考える必要があります。

それは10代でしょうか。

それとも20代でしょうか。

 

どれも違います。

 

答えは

 

「目標を定め、動き出したその瞬間」

 

です。つまり、実年齢は関係ありません。

年齢に関係なく、何らかの目標に向かって動いている人は、常に成長し続けています。

成長し続けているということは、その人自身は現状を成熟状態とは認識していないということです。

さらに成長するために重要な要素は、素直さ・謙虚さ・柔軟性であり、上記の定義のうちの精神的な若々しさに当てはまることが分かります。

 

以上より、「若い時」というのは年齢的な側面を指しているだけでなく、人の成長のファクターとしての精神的な若々しさ(目標に向かって頑張っている時期)も含んでいると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

「苦労は」

苦労という言葉は主観的な言葉であり、ある状況の捉え方の一つであると言えます。大きく分けると以下の二種類があります。

  • 何らかの目標を達成するために必要な努力のプロセスの中にある“しんどい”状況。自分の意思で選択した結果であり、自分のためになると考えられるもの。
  • 自分の意思に反して陥っている理不尽な状況。その苦労をすることが到底自分のためになるとは考えられないもの。

 

両者の決定的な違いは「主体性」の有無です。

 

ではどちらの意味で使われているのでしょうか。

 

上述した通り、この言葉がそもそも人の成長を前提としていることを考慮すると、前者を指すことは自明です。

また、もし後者の状況にあるとしても見方によっては(主体性の有無によっては)前者として捉えることができるケースもあるかもしれません。

 

 

 

 

「買ってでも」

お金を出してでもやりなさい、ということですね。

ネット上で調べていると、この部分について「苦労を売る側」まで連想して「搾取を助長する」というような意見もありました。確かに、ブラック企業の幹部が社員に対してこの言葉を振りかざして働かせているとすればそれはただの乱用・悪用です。

ですが、この部分はもっとシンプルに解釈すればいいと思います。

つまり「主体性を持て」ということです。

 

普段の買い物を想像してみてください。

例えば食料品の買い物をする時。

買い物という一場面を切り取れば、「食材を買うこと」が目的の行為です。しかし、さらに視野を広げて何のために食材を買うのかというと、食材を使って「料理をするため」です。

 

すなわち、わざわざお金を出して(一見デメリットでしかない)苦労を買うということは、苦労自体が欲しいわけではなく、苦労の先に欲しいものがあるわけです。

 

苦労の先にあるもの(目標・目的)を見据え、自らの意思で苦労を買う。

これは主体性の発露に他なりません。

 

 

 

「せよ」

 命令形なので強く刺さる部分ですね。ことわざは真理に近いため言い切る形なのでしょう。

ここで重要になってくるのは、「誰が」「誰に」言っている言葉なのかということです。

もし、あなたが何か大変な状況にある時にこの言葉を他人から言われたらどう感じるでしょうか。

「・・・うん、確かにそうだけど、何であなたがそれを言うの?」と思うのではないでしょうか。

そうです。 この言葉は苦労している他人に対してかける言葉ではなく、「自分が」「自分に」かける言葉なのです。

 

 

ここまでくるとゴールが見えてきますね。

要するに、(実年齢に関係なく)目標に向かって頑張っている中で一時的にしんどい瞬間に直面した時、踏ん張ってそれを乗り越えるために自分を鼓舞する言葉であると解釈すると非常に納得できます。

 

 

 

というわけで、この言葉に関する違和感の正体は、「主体性」の有無この言葉を使う主体がはっきりしていないことでした。

 

 

この言葉を字面だけ真に受けてしまうと、苦労することが目的となってしまいます。しかし、苦労はプロセスであり、主観的なものであり、手段に過ぎません。

ですので、まずは自分がどう生きたいか、どうありたいかという軸を持つことが大切です。

軸さえ見失わなければ、表面的なことには惑わされなくなります。

 

 

人生はシンプルです。

 

ただ、真摯に目の前の課題に向き合い、一所懸命生きること。

 

この継続があなたの人生を形作ってゆくのです。

もっと「わがまま」に生きよう。責任と覚悟を持って。

 

世の中の多くの人は「他人軸」で生きています。

 

  • 良い子でいなければならない
  • 他人(親や教師)が自分に対して望んでいる(であろう)ことをしなければならない
  • 社会や人々の役に立たなければならない
  • 良い学校に行くべき
  • 良い大学を出たのだから良い会社に勤めるべき
  • 他人と比較することで優越感や劣等感を感じ、他人より優位に立つために行動する

 

これらは全て他人軸で生きている人の思考回路です。一つも当てはまらないという人はなかなかいないのではないでしょうか。

 

これに対して「自分軸」で生きる生き方とは

 

  • 自分の人生に自分で責任を持つ(覚悟を持つ)
  • 自分の心の声に耳を傾け、素直に生きる
  • 自分の心に嘘をつかない
  • 主体性を持って生きる
  • 自分を大切にするからこそ、他人の生き方や考え方を尊重できる

 

ということです。

 

 

他人軸で生きている人は、自分のためではなく、他人や社会のために生きています。

 

一見良さそうなことのように思うかもしれません。しかし果たしてそうでしょうか。

 

 

また、そもそもなぜ他人軸で生きてしまうのでしょうか。

 

 

それは「自分軸」がないからです。

 

 

人生の主体、主人公は他の誰でもない自分であるにも関わらず、大切な自分をどこかに置き去りにして他人の人生を生きてしまっているのです。

 

他人軸で生きている人と話をしている時に感じるのは、「自分の言葉」で話していない、ということです。心からの言葉ではなく、「ペタペタと貼り付けた綺麗な言葉」を並べているだけなので、その人の本当の姿が見えません。

他人軸で生きている人が「自分の言葉」で話せない理由は、ありのままの自分を肯定できず、自分の本当の姿や気持ちに蓋をしているためです。

飾らず、背伸びをしないありのままの自分を肯定できないと、他人がどう思うかを常に気にして、「より良い」「あるべき」理想の自分像に当てはめて演じることになります。こういった傾向は多くの場合、育った環境や保護者の教育などにより幼い頃から思考回路に刷り込まれているので、成人になるとほとんど無意識・無自覚に振る舞うようになっています。

そして大人になった時、仕事や家庭の中でなんとなく「生きづらさ」を感じる原因の一つになります。

 

大抵の場合、本人は無意識・無自覚である上に、周囲の人も(程度の差はあれ)こういう傾向にあります。そのため、改めて自分の思考の癖や物事の考え方・捉え方を見直す機会はなかなかありません。

 

今、なんとなく「生きづらさ」を感じている人は、一度ゆっくり時間をとって自分自身と対話してみてください。特に、人生の大きな決断をする時、自分がどういう風に考えていたかを振り返ってみると見えてくるものがあると思います。

これまで自分のために生きてきたか。

自分以外の誰かのために生きてはいなかったか。

 

自分がどういう風に生きてきたか少し見えてきたら、次は自分の本心を言葉にしてみてください。少しずつで構いません。どんな小さなことでも構いません。今晩何が食べたいか、でもいいのです。本当の気持ちを自分が分かってあげることが大切です。

 

 

自分らしく生きるとは、その本心にしたがって生きるということです。

あなたがあなたのために生きることを誰も止めません。あなたがあなたらしく生きることを誰も否定することはできません。

 

例えば

「親がどう思うか考えると怖い」

「彼氏・彼女に嫌われてしまうかもしれない(別れることになるかもしれない)」

「本当にやりたいことをやろうとすると社会の王道からはみ出てしまう気がする」

 

と言った心配が浮かび、

「やっぱり私にはできない」

とブレーキがかかっているのだとしたら、そのブレーキは他でもないあなた自身がかけているだけなのです。

実際、親や恋人、友人があなたに反対することはあるかもしれません。

しかしそれがなんだというのでしょうか。

あなたに対してどう思おうが、それはその人自身の問題であってあなたには一切関係ないのです。

彼らは決してあなたの人生の責任をとってはくれません。

したがって、彼らの反応を理由にやめてしまうのはただの言い訳に過ぎません。

人生が終わる瞬間、「楽しいことも大変なことも色々あったけれど満足できる人生だった(精一杯生きた)」と思ってこの世を去りたいと思いませんか。

それとも「〇〇のせいであれができなかった」「これができなかった」と恨みがましく終わりたいですか。

 

どんな人生でもいいのです。

ただ、自分が自分の人生に満足していることが大切なのではないでしょうか。

 

 

自分を客観視し、自分と向き合うための方法としては、心理学等の知識を持った人との対話(カウンセリング)が有効です。カウンセラーは相談者の鏡となって自分自身との対話を手助けしてくれます。

ただし、近しい存在である親や友人ですと、詳しい事情を知っているため話しやすい一方で、主観や感情が入りやすいためうまくカウンセリングできないことがあります。

ですので最初は、全くの他人の専門家に対して本心を話すことから始めてみるといいかもしれません。

 

 

 

「良い子」でなくていいのです。

もっと「わがまま」に生きていいんですよ。