実る程こうべを垂れる稲穂かな

思ったことを気まぐれに書きます

リフレッシュ目的で一時保育を利用してみた話

もうすぐ1歳5か月になる息子を一時保育に預けてみたので、預けるに至った経緯と利用のための手続き、利用してみた感想などについて記録してみようと思う。

 

私自身、優柔不断な性格で、新しいことを始めるにあたって調べて調べて調べまくってやっと納得して取り掛かるタイプなので、一時保育も例に漏れずインターネットで調べまくった。

しかしながら、やっぱり生の声に勝るものはなくて、結局公園で出会った他のママさん1名にお話を聞いたのが私の場合は最大の後押しになった。

ママ友というものはめんどくさそうで作りたくはないのだが、公園でのちょっとした出会いや立ち話を情報源としてうまく活用するのはアリだなと思った次第。

 

というわけで、私の経験が少しでもなたかの参考になればと思いブログに残すことにした。

 

 

 

 

一時保育を利用しようと思った理由

一時保育に預けようと思った理由は主に以下の2つ。

①集中して仕事がしたい

②リフレッシュ

 

①集中して仕事がしたい

私は個人事業主として在宅で仕事をしているのだが、現段階ではガツガツ働くほど仕事があるわけでもなく、また、仕事をいただいたとしてもガツガツ働ける状況にない。

ただ、仕事を振られた場合や定期的に依頼されている仕事については、しっかり時間を確保して集中して取り組みたい。

 

こうした状況なので、月に最大15日預けることのできる非定型の一時保育(就労証明書が必要)を利用するほどではなく、月に最大3日預けることのできる私的理由の一時保育でとりあえずいいだろうという判断で利用することにした。

 

②リフレッシュ

もちろん仕事だけでなく羽を伸ばしたいという理由もある。

私的理由なので仕事をしようが、家で寝ようが、遊びに行こうがなんでもいいわけなので、今後は預けて映画を観に行ったり、夫とデートしたりできればいいなと思っている。

 

 

一時保育の申し込みに至るまで

決断までに半年かかった

前述のとおり、私は優柔不断な性格なので、一時保育の申し込みを決断するまでに半年ほど掛かった。

 

こんなに時間が掛かった理由は次の3つ。

①息子を預けなくてもどうにかなる状況にある

 

②申し込み⇒面接・手続き⇒持ち物の準備⇒予約⇒利用という、実際の利用までのハードルが高く感じた(めんどくさかった)

 

③インターネットで調べると、なかなか予約が取れないという情報があったので、②のようなめんどくさい手順を踏んでも実際に利用できないなら意味がないと思った

 

ぶっちゃけ①が最大の理由。

仕事が立て込んで預けるしかない状況だとしたら迷う余地はなかったのだが、息子が寝ている間や夫が休みの時などに合間を縫ってこなせる仕事量だというのが、②のめんどくささと相まって言い訳になっていた。

 

③については、公園で出会った同じ保育園の一時保育を利用したことのあるママさんに聞いたところ、「予約取れましたよ」とのだったので、「意外といける…?」と思えたのが大きかった。

 

最大のきっかけ:息子の成長

そして、一時保育を利用しようと強く思うようになったきっかけは、息子との時間を持て余しているように感じ始めたから。

 

1歳を過ぎ、体力もつき、好奇心も旺盛で人も好き。

 

自宅保育だとおもちゃや遊び、散歩コースなどがどうしてもマンネリ化してくる。

 

新しいおもちゃや遊具を見れば目を輝かせながら遊び、散歩中におじいさんやおばあさんに話しかけられればニコニコ手を振り、子供が遊んでいるところに混ざりたがる。

そんな様子の息子を見て、私や夫とだけ関わるのではもったいないと思うようになった。

 

夫が休みの日には、動物園や水族館、広い公園などできるだけ色々なところに連れて行くようにはしているが、1歳の子どもを連れて入れる施設はそう多くない。

 

また、何より私たち親以外との関わりをもつことが難しい。

年に数回、正月や夏休みなどに親戚と会うことはあるが、日常的に関わる機会はない。

幼稚園に入園するまで基本的には自宅保育をするつもりだが、保育園に通っている子どもたちとあまりにも環境が違い過ぎるのは少し気がかり。

 

社交的な息子なら初めての保育士さんや子どもたちともきっとうまくやれる。

そう思い、やっと重い腰をあげて申し込むに至った。

 

 

一時保育の申し込み

電話→面接

まず、希望する保育所の一時保育専用ダイヤルに電話して、面接の日程や利用希望日を調整。

面接の予約と同時に、次月の利用の予約もするのだが、月の半ばを過ぎた頃だったためすでに予約がいっぱいで、キャンセル待ち1番目の日に予約をお願いした。

利用希望日の前月の始めから予約が可能なのだが、予約開始と同時に申し込むくらいでないとすぐにキャンセル待ちになってしまうようだった。

おそらく非定型や緊急の枠を確保するために私的理由の枠はかなり限られているものと思われる。

 

面接の前日までに書類を受け取り、記入して面接当日に持参。

面接では、もう1組0歳児の親子もいて、一緒に説明を聞いた。

栄養士さんとは食事のこと、看護師さんとは成長発達の度合い、体調のことなどを話し、園長先生からは利用時間や利用方法、持ち物などについてのお話があった。

説明の間、息子は用意されていたおもちゃで遊び、時々保育士さんが相手をしてくれていた。

この日も息子はニコニコご機嫌で、帰り際には私が抱っこしているにもかかわらず、保育士さんに抱っこをせがむ始末。

昨今、保育園での問題が色々取りざたされているが、職員の皆さんは優しそうな方たちばかりで安心した。

 

利用料

利用料は、平日1日の利用で、2665円(給食費込み)。

通常保育に比べればもちろん割高だが、ベビーシッターを利用するよりははるかに安い。格安。

 

そして、今月から支払い方法がキャッシュレスも可になったと知り、感動。

現金払いを覚悟していたので何よりも驚いた。

こんな半端な金額の現金を毎回用意するの地味にしんどいので助かる。

それに現金はおつりの間違いもよくあるのでお互いに不幸しかない。

ありがとう、キャッシュレス。

 

 

申し込みから利用まで

最初の電話で利用日を2日分決めていたのだが、どちらもキャンセル待ちということで、そうそうキャンセルする人なんていないだろうと思い、ちまちまと準備していたら前日の14時半頃に電話があり、キャンセルが出たので明日利用しますか、と確認され少々驚きつつも利用する旨を伝えた。

 

利用するにあたって、利用申込書の記入が必要とのことで、基本的には前日までということだが、当日朝でもよいとのこと。

時間がなければ当日にするところだったが、ちょうど散歩に出かけるタイミングだったので電話の後すぐに保育園へ行き、利用申込書を記入。

 

持ち物の準備がほとんどできていなかったので、その夜大慌てで準備した。

給食で使うエプロンは、自宅で使用しているもの(紙の使い捨てエプロン)でも良いようだったが、他の園児たちはフェイスタオルの中央にひもを縫い付けたものを使用するらしく、皆と同じものがいいかなと思い、不器用ながらひもを縫い付けた。

そして、おむつから服や靴、タオルに至るまで、あらゆるものに名前を書かなければならないので、抜かりがないか少し不安だった。

 

 

利用当日

預ける時

初めてなので慣らし保育が必要なのかと思いきや、不要とのことで、いきなり1日利用ができた。

 

利用時間は8:30~17:00ということで、意外に長時間だなと思ったが、お迎えの時間を確認された時、せっかくならと思い「16:30で……」と言ったところ、対応してくれた保育士さん2名が同時に顔を曇らせる。

 

保育士さん「最初なのでご飯食べられなかったりするかもしれないからね……。用事は何時に終わりますか?」

 

大食漢な息子なのでどんな状況でもご飯は絶対に食べるだろうと思いつつ、やっぱり遅いか……と思い、

 

私「特に用事はなくて、休ませていただこうかなと思っています。何時くらいがいいでしょうか?」

 

保育士さん「15:30くらいかな」

 

私「じゃあ15:30に来ます!」

 

という流れ。お迎えの時間の相場が分からなくてちょっとはずしちゃった感じ(笑)

特に用事がない場合は、おやつ食べたら帰るくらいがいいのかな。

 

 

息子はどんな感じで過ごすのだろう。

隠しカメラで見てみたい気持ちを抑えつつ、セブンイレブンのカフェラテを片手に帰路についた。

 

お迎えの時

15:30が近づき、お迎えに行った。

 

保育士さん「今おやつを食べているところなのでもう少し待ってくださいね」

 

しばらく待っていると保育士さんに連れられ息子登場。

私を見ても駆け寄ってくるでも、喜ぶわけでもなく、少しだけニヤリ。

なんやその「あぁ、あなたね」みたいな反応。

 

そして保育士さんがどんな風に過ごしたかを教えてくれた。

 

保育士さん「給食をですね、よく食べまして~」

 

私(やっぱり笑)

最初の「給食を……」を聞いた瞬間、「まさか、ひょっとして食べなかった!?」と一瞬思った私がバカみたいだった。

 

給食については一応、離乳食完了期のメニューでお願いしていたのだが、

 

保育士さん「丸呑みじゃなくてしっかり噛んで呑み込めているので、次からは乳児食でよさそうですね」

 

保育士さん「他のお友達のも欲しがってましたので……笑」

 

私「すみません、食い意地張ってて💦」

 

保育士「いやいやいいことですよ~」

 

 

案の定、大食漢を発揮していたようだ。

乳児食というのがどういうものかいまいちイメージできなかったので、念のため離乳食をお願いしていたのだが、おそらく息子にとっては柔らかかったり薄味だったりで物足りなかったのだろう。

面接の時に普段の食事の写真を見せておけばよかったかなと思った。

 

 

靴を履かせようとすると、見るからに土まみれ。

 

保育士さん「外でもよく遊びました」

 

めっちゃエンジョイしてるやん。

 

靴を履かせて帰ろうとすると、保育士さんの手を引っ張って外に行こうとする息子。

まだ遊びたいんかい。

ベビーカーに乗せた後もまだ遊びたそうにぐずっていたので、相当楽しかった模様。

 

 

利用してみて

大変だったこと

ぶっちゃけ、やっぱり手続きや準備はめんどくさい。

①申し込みの際、前日までに書類を取りに行くこと

 

②持ち物が多いこと(一時保育は置いておくことができないので特に)

 

③電話予約をし、利用前日までに利用申込書を記入しに行くこと

 

 

①についてはまぁ一回きりなのでいいのだが、②、③は預けるたびに発生するのでちょっと大変かも。

 

②については、最初は名前を書いたり裁縫したりがあったので余計に大変だったのかもしれない。次回からは忘れものさえないようにすればいいので少し楽になるかな。

 

③はちょっとどうにかしてほしい。

児童館の予約しかり、公的サービスは電話予約ばかりで少々うんざり。

ネット予約にすれば予約状況が分かりやすくてお互いwin-winでは?と電話が苦手な私は強く思う。

また、申込書については大した内容ではなく、ただ名前と住所、連絡先、利用日時を複写式の用紙に記入するだけ。

わざわざ時間を作って記入しに行く必要あるのか甚だ疑問。

全然当日の朝でもいいと思うし、なんならそもそも必要か?と思う。

まぁ必要だとして、予約同様、HP上にフォームを置いてポチポチするだけでよさそうな感じ。

この辺はお役所の紙文化のせいだと思う。

キャッシュレス同様、ペーパーレス化もがんばってほしい。

 

それでも、これらのめんどくささを乗り切った先にあるメリットはデメリットをはるかに超えているのは間違いない。

 

私の気持ち

預けるまでは不安と期待半々。

預けてみると、開放感と少しの罪悪感が入り混じった複雑な気持ち。

お迎えの時の息子の様子を見てからは、預けて本当によかったと思う。

 

私にとってはリフレッシュになったり、仕事ができたり、息子にとっては保育のプロである保育士さんや他のお友達と関わることができたり、私たちだけでは与えられない刺激を受けることができたりといいことづくめ。

まさにwin-winな状態。

むしろもっと早く申し込んでおけばよかったかもとまで思う。

特に、お迎えに行くまでに洗濯物を取り込んで畳んだり、晩ご飯の支度をしたり、お風呂掃除をしたり、といった一通りの家事を集中して済ませられるので、息子が帰って来てから心置きなく一緒に遊べるというのが地味にいいことだと思う。

普段は息子を気にかけながらの家事なので、スムーズに家事ができないことにストレスを感じたり、かたや息子が順調に一人遊びをしてくれていると家事は進む一方遊んであげられないことに罪悪感を感じたりと、どっちにしろストレスフルな状態になってしまう。

それが一時保育で預けることで合法的にノンストレスでマイペースに家事をすることができる。

ベランダの水やりも窓を開けっぱなしでできる。

こういうニッチ過ぎるけれど、普段は当たり前にできないことができるというただそれだけで幸せだと思った。

 

一時保育で預けたからと言って、特別に何かがしたいわけではない。

もちろん、映画を観たり、カラオケに行ったり、子連れで行けないようなレストランに行ったりしたいという気持ちもある。

でもこれらは表面的なことであって、本質はそこにはない。

子どもを預けることで生まれるのは、「自分の意思で行動できる時間」だ。

小さい子どもがいると、9割方、自分の意思で動くことはできない。

家事や外出はおろか、排泄だってままならない。

そんな、9割方アウト・オブ・コントロールな日々の中に一瞬だけ与えられる、コントロール可能な時間。

それをいただいているのだと実感した。

一時保育、実にありがたい。

 

 

なんにせよ、パソコンに集中して向かえるのは本当に嬉しい。

こうやってブログも書けちゃう。

これから少しずつ仕事も増やしていきたいな。

なにせ莫大な額の奨学金の返済があるからね☆彡

 

 

ただ、今まで一度も熱を出したことのない息子なので、風邪やら何やらをもらってこないかは心配だが、大食漢の免疫力に期待。

熱出したらきっとあたふたしちゃうだろうなぁ。

まぁ、病気をもらっても免疫がつくと思って看病しよう。

【医薬品登録販売者試験】育児しながらの勉強はなかなか大変・・・

学生時代、漢方薬店でアルバイトをしていて、店長からずっと受けるように勧められていた医薬品登録販売者試験をやっと受験することができました。

合格率4〜6割くらいでそんなに難しい試験ではないのですが、まぁそれでも試験ですからきっちり勉強はしないと受かりません。

自己採点したところ、101/120(84.1%)ということで合格はできていそうです。

本当は9割は取りたかった……。

 

去年は妊娠期間を充実させようと思い、半年間の独学で社会保険労務士試験(合格率7%くらい)に合格しましたが、今年は息子の育児もあってなかなか勉強の時間を作ることが難しく、「勉強したい、しないといけない。でもできない」の連続でストレスがものすごかったです。

 

勉強自体は社労士試験の方がはるかに大変なのですが、【机に向かう時間が確保できるかどうか】という違いは想像以上に大きいのだなと、今回痛感しました。

 

今後も受けたい試験はいくつかあるのですが、ストレスが溜まって家事・育児に影響が出てしまっては元も子もないのでちょっと考え中です。

 

 

カルト宗教二世の苦しみ

7月8日11時40分。

息子とテレビを見ていたら衝撃的なニュース速報が映し出され、現実のこととは到底思えなかった。

18時前にはついに訃報が流れ日本中が悲しみとやり場のない怒りに包まれた。

 

政治的なことはよく分からないのでここでは一切触れないが、犯人の動機がカルト宗教二世が故のものと知り、なんとも複雑な想いが巡ったので子供の頃の自分を慰める意味も込めて少し自分自身のことを振り返ってみたいと思う。

 

 

 

 

元カルト宗教二世の私

私は「元カルト宗教二世」だ。

「元」というのは、もう母がその宗教を信仰していないからだ。

ある日突然呪縛が解けたと言ってもいい。

だが、私自身はいまだに、あれはなんだったんだろうと時々思うし、勝手にスッキリサッパリ足を洗ってほとんど悪びれる様子もなく自由奔放に生きている母にほとほと呆れている。

物心つく前から母の信仰に付き合わされ、子供心に不自由さと違和感を覚えていたのに、子供が故にその違和感を言語化できず、言語化できたところで親の管理下にあるうちは圧倒的に無力で何もできず従うしかない虚しさ。悲しかったよね、子供の頃の自分よ。

まぁ要するに今流行りの親ガチャという概念に当てはめれば、私の場合はこの点において若干ガチャ失敗と言ったところだろう。

ただ、親子と言っても所詮他人だし、全く違う人格を持っている。

親だから「できた人間」というわけでもないし、ましてや「エラい」わけでもない。

親に対して聖人君子であることを求めるのは到底無理だし、酷だ。

だから結婚して距離ができた今では客観視できて、まぁ仕方ないか、と思えるようにはなった。

 

 

母について

簡単に私の母を紹介しよう。

私の父は、母と結婚してすぐに浮気し(実際いつから浮気していたのかは分からないが)、ほとんど家に帰って来なかったという。

母は私を妊娠している頃から大変な思いをしていたようで、ある人物に相談していたらしく、その人から宗教に勧誘されたらしい。

ここから母の約20年にわたるカルト宗教どっぷりライフが始まったわけである。

私自身、息子を出産し、子育ての大変さを日々痛感しているので、見知らぬ土地で母と乳飲み子だけが置かれれば、母が不安定になったことも理解はできるが、だからと言ってなぜ宗教にハマるのかという心理的なメカニズムはやはりよく分からない。

 

母はその後すぐに離婚し、実家に戻ったが、私が10歳の時に再婚し、そして妹が産まれ、私が20歳の頃に再び離婚した。

今は実家の近くで高校生の妹と二人で暮らし、自営業でバリバリやっている。

母の人生は客観的に見れば波瀾万丈。私から見れば単なる台風の目である。

常に母を中心とした台風に曝され振り回されてきた。

 

 

母がハマったカルト宗教

特定を避けるため宗教名や詳しい教義、固有名詞は明示しないが、ここでいうカルト宗教は仏教系とだけ言っておこう。

 

とにかくこの宗教は先祖がどうたら、因縁がどうたらと言って数万〜数十万円する物品を購入させたり、儀式を受けさせたりしていた。

母も例に漏れず様々なものに課金していた。

 

その他、

  • 毎日15分ほどお経を唱えさせられた
  • 月に一度、地域の拠点で法要があり車で2時間かけて行った
  • 年に一度、大きなイベントがあり、遠路はるばる遠征した
  • 日々の言動は教義に沿ったものを求められた

これらを押し付けられ、とにかく付き合わされた。

 

いまだに悲しい、というか切ない思い出となっているのは、月に一度、地域の拠点での法要に行かされたことである。

私が住んでいた地域には大きなショッピングモールや遊園地などはなく、拠点のある地域にはそういったものがたくさんあったので子供の頃の私はそこに行くと聞けば遊びに行けると期待していた。

しかし、行くのは宗教の施設。嫌々参拝させられ、おじさんやおばさんに声をかけられ、母の用事が済むのをじっと待つしかない。最悪だった。本当に最悪。

また、母は、特段法要などがない時でも用事のついでに少しでも時間があればその施設に寄りたがった。

今日?今から行くの?買い物に行けないの?と何度思ったことか。

今思い出しても子供の頃の私が遊びたくてたまらなかったのが痛いほど分かる。

現在、妹は母と楽しく映画を見に行ったり買い物をしに行っているというのを聞いて、私も純粋にそういうことがしたかったんだよなと悲しくなる。

 

課金の総額は一体いくらになっていただろう。

恐ろしくて聞くこともできないが、そのお金を教育資金として貯めてくれていればと思うと、もう少し大学時代に借りた奨学金の額を減らせたのではないかと、どうにもならないタラレバを募らせてしまう。

 

 

なぜカルト宗教にハマるのか

なぜカルト宗教にハマるのか。

私はハマった本人ではないので本当のところは分からない。

本人の気質によるところもあれば、育った環境によって捻じ曲げられた認知機能による部分もあるだろう。

 

母曰く、母の母、つまり私から見た祖母の育て方の影響も少なからずある。

もっと愛情が欲しかった。子供たちの前で父の悪口を言ってほしくなかった。

……などなど。

しかし祖母自身も愛情不足で育ち、愛し方が分からない。

よく、虐待は連鎖するというが、愛情不足も連鎖するのだ。

 

こうして生きづらさを抱えた母は、男性を見る目が育っていない上に、そりの合わない祖母から逃げたい一心で結婚に走り、結果的に結婚生活に二度失敗した。

根本に愛情不足と生きづらさを抱えた母は孤独感を募らせ、「なぜ自分がこのような状況にあるのか」というその原因を探りたくなったのではないだろうか。

そこで出会ってしまったのが宗教だったわけだ。

 

人は、原因不明の痛みや苦しみに名前がついた途端少し気持ちが楽になることがある。

これと似た感覚なのではないだろうか。

 

「あなたが苦しいのは成仏していないご先祖様がいるからですよ」

「あなたは前世で悪いことをしたから今苦しんでいるんですよ」

 

といった具合に。

何事も捉え方次第で気が楽になるのは事実なのでそれで救われるのはいいのだけど、ここで終わらないのがカルト宗教の恐ろしさ。

 

「ご先祖様を供養してあげたらあなたの苦しみも解かれますよ」

「現世で功徳を積めば来世でもっと楽に生きられますよ」

 

ってね。

普通の感覚であれば「なんやそれ」ってなることも、一人で悩んで絶望して迷い切ってしまった人間というのはあっという間にこの理屈に洗脳されてしまうのよね。かなしいかな。

孤独感の強い人間は「話を聞いてもらえた」というだけでも簡単に心を開いちゃうしね。あぁいいカモだ。

 

だから母が入信してしまったことに一定の理解はできる。

当時の母の状況なら仕方なかったんだねと。

 

 

二世の苦しみの本質

それで、入信するのがその悩んでる張本人だけならまだいい。

ところが結局、宗教団体は金儲けしてナンボだから家族や友人を巻き込ませようとする。

これがタチが悪い。

 

大人ならまだ判断力があるから拒否もできる。

 

子供なら?

ひどいと胎児のうちから勝手に登録されてたりするんだから全く手の施しようがない。

本人の意思なんか完全に無視。

仮に拒否できる年齢であっても親の庇護のもと生きるしかない子供には実質拒否権なんてものはない。

100%被害者。

本人が入信を望んでいないのなら、子供の人格や人権を無視した立派な心理的虐待だと思う。

 

だから、カルト宗教二世の苦しみは痛いほどよく分かる。

縛られて振り回されて嫌というほど無力感を味わわされる。

私の周りにいたカルト宗教二世の子たちは、妙に気持ち悪いくらい純朴で「良い子ちゃん」が多かった気がする。

子どもらしさを奪われるからかな。

 

とはいえ、私の場合は母や宗教団体を心底恨むほどには至っていないし、たとえ恨んでいたとしてもそれが他人を傷つけていい理由には絶対にならない。

しかし、今回の事件は一人の尊い命と引き換えにものすごく大きな問題提起をしているように思う。

今まで信教の自由として見過ごされてきたカルト宗教二世。

この苦しみを一人でも多くの人が乗り越え、これ以上望まぬカルト宗教二世が生まれないことを切に願う。

9ヶ月になると育児の質が変わった話

実感として、なので科学的根拠があるわけではないのだが、9ヶ月になって明らかに育児の質が変わったと思う。

2歳の「イヤイヤ期」は有名なのでそれなりに心づもりしているが、まさか「魔の9ヶ月」があるとは思っていなかった。

 

 

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睡眠

息子の場合、2ヶ月に入った頃からほぼ夜通し寝るようになり、5ヶ月くらいまでは日々のルーティンをこなしていれば結構セルフねんねしてくれて、19時台には夫婦でゆっくり夕食を食べることができ、その後は自由時間という感じだった。

……のだが、8ヶ月後半あたりから徐々に雲行きが怪しくなってきて、最近ではセルフねんねなど夢のまた夢となっている。

とりあえず添い寝してみて這い出してぐずるようなら抱っこ、それでもダメなら夫が夜の散歩に連れていき、1時間以上かかってようやく寝かしつけ完了ということがもっぱら。

ひどい時は3時間くらいかかることもあり、夫婦共々ヘトヘトの毎日。

 

21時頃やっと寝ついたかと思えば、4時頃には泣き出し再度寝かしつけようとしてももう寝ないのでいつも夫が起きてくれている。

夫は仕事もあるので申し訳なく、本当は私が起きるべきなのだろうが基本的にロングスリーパー気味な私はなかなか起きられないのでついつい甘えてしまっている。

少し前までは息子が寝た後テレビを見たり、資格の勉強をしたりして0時頃就寝していた私たちだったが、こんな感じで息子が超早起きなのでとても身体がもたないということで、最近は22時半頃には就寝するようにしている。それでも私は起きられないのだが。

 

発達

7ヶ月の終わり頃からずりばいをし始め、ほぼ同時につかまり立ちもし始めたので、8ヶ月以降は運動機能の発達が急速に進んだ。

 

それと同時にさまざまな物事への興味関心も広がり、とにかく目につくものは手に取る、口に入れる、落とす……じわじわと目が離せない時間が増えていき、今では一瞬たりとも目が離せなくなっている。

 

テレビは電源がついていようがいまいが関係なくにじり寄って画面をペチペチ。

正面はローテーブルでガードできるのだが、左右はカバーしきれないので両側の角から攻められる。

そろそろアクリル製の画面カバーが必要かなぁと思っている。

我が家のテレビは数ヶ月前に買った55型の有機 ELなので傷つけられたらかなり辛いが、画面カバーは1.7万円くらいするらしく決して安くないのでまだ躊躇っている。

でも傷つけられた時の損失の方が大きいから遅かれ早かれ買うことになりそうだ。

 

また、取手のついた扉があればパタパタ開閉。食品入れや食器棚も開閉するのでついにダイソーの扉ロックを買って取り付けた。

 

育児は予想外のヒヤリハットの連続なのでできる予防はなんでもやっておかなければならない。

それでも防ぎきれない部分もあるのだが。

 

指差しっぽい動きは9ヶ月に入る頃からし始めたが、それ以外の両手「パチパチ」とか「バイバイ」はまだしない。

10ヶ月健診のチェック項目にあるので教えているがなかなか習得しない。

とりあえず焦らずに見守ろうと思う。

 

後追い

ずり這いをするようになった頃から後追いするようになった。

それまでも姿が見えなくなると泣くことはあったが、実際に動いて追われるようになると周辺の安全も確保する必要があるので精神のすり減りようが段違い。

正常な発達の証だと分かってはいても現実問題として、家事が全く捗らないので本当に大変。

目と手が足りない。マジで足りない。

自分の分身がもう一つ欲しいと本気で思う日々。

 

離乳食

5ヶ月から離乳食を始め、進みは順調。

息子はよく食べるので「食べてくれない」という悩みは皆無で、むしろ「もっとくれ」と泣かれることが多い。

基本的に手作りで、市販のベビーフードはお出かけの時に使うくらい。

冷凍のストックを作っておいて、毎回食材の組み合わせを変えている。

 

9ヶ月から3回食になったが今のところ特に問題なく進んでいる。

強いて言えば、授乳・ミルクの加減が難しいことが少し悩み。

息子はかなりしっかり食べられているので、ミルクを飲ませすぎるのもどうなのかと思い、授乳は1日1〜2回になっている(体重が成長曲線を突破するくらいの時期もあり、ドクターストップで(笑)、100ml〜120ml × 3回/日 をあげていたので元々少なめではあった)。

 

栄養的に問題がなければ卒乳になりそうなのだが素人判断はできないので、10ヶ月健診の時に聞いてみようと思う。

 

9ヶ月の大変さの正体

育児はそもそも大変なものなのだが、なぜ9ヶ月で育児の質が変わったと感じるのか。

一番の要因は【子供が自分の意思で動き出したこと】だろう。

 

動き出す前は育児というよりむしろ「介護」「お世話」に近い。

ほぼこちらの思い通りに寝かせたりミルクをあげたり、コントロールできていた。

 

ところが子供が動き出すと途端に「育児本番」になる。

完全にアウト・オブ・コントロール.。

自分とは別の人格・意思を持った人間と対峙しているという感覚。

一人の人間を育てているという実感が湧き、いよいよ育児が始まったのだなと痛感する。

 

育児は忍耐・我慢の修行。

息子が成人した時、私自身も人間としてひと回りもふた回りも大きく成長していたい。

映画「ベイビー・ブローカー」感想(ネタバレなし)

是枝監督の作品は「そして父になる」くらいしか観たことがないのだが、この作品はあらすじを斜め読みしただけでビビッと来た作品だった。

 

いざ映画が始まってみると、タイトルから抱いた「極悪なブローカーのエグイ話かな……」というイメージとは裏腹な雰囲気が徐々に漂ってくる。

 

物語の序盤に散りばめられた伏線が、中盤からクライマックスにかけて「自然な形で」見事に回収されていくのがとても心地よかった。

必要な部分はしっかりと描きながらも観る者の想像で補完して差し支えない部分は描き過ぎない。それがエンドロールで感じる余韻に繋がっていた。

 

さりげなく美しい劇伴も注目すべき点で、音の「引き算」をしながら作られたというその音たちは、確かに映画にそっと寄り添っていて、観る者の感情を「自然に」変化させていくことに大いに貢献していたと思う。

だからと言って完全に記憶に残らないものではなく、後からサントラで聴き直したいと思えるほどには曲としての独り立ちもしていた。

 

また、演出の緻密さにも心底感動した。

画面の端でリッチェルのエアー式のベビーバスを萎ませているのを目で捉えた時は「めちゃくちゃ細かい!」と驚いた。

育児をしている身としては育児に対するリスペクトも感じられて、その点でもとことんリアルを追求していることがよく分かった瞬間だった。

 

ネタバレなどするまでもなく、とにかく興味のある人はとりあえず観てほしいと思う。

話はそれからだ、という感じ。

登場人物それぞれに対していろんな思いを馳せることのできる、二度も三度もおいしい作品なので、鑑賞後、きっといろんな人と語り合いたい衝動に駆られると思う。

児童館で感じる成長

初めて息子を児童館に連れて行ったのは、息子が4ヶ月の時だった。

 

4ヶ月というと、寝返りがやっとできるかできないかくらいで、おもちゃを持たせれば持つが、「遊ぶ」というには程遠い状態だったので、他の1歳児の子どもたちが元気に動き回る様子を見ながら1年後に本当にこんな風になるのだろうかと俄には信じがたかった。

そしてこの時、児童館に行ってもまだ遊べなさそうだと思ったので以来数ヶ月間は児童館に行くことなく家で過ごしていた。

 

8ヶ月頃になるといよいよずりばい、はいはい、つかまり立ち、伝い歩き・・・とどんどん自分の意思で動き回るようになり、底知れない興味関心に突き動かされるように縦横無尽に移動するのですっかり目が離せなくなった。

また、9ヶ月に入るとさらに体力もついてきて、この有り余るエネルギーをどうやって解放させたらいいのか途方に暮れるようになった。

手先も器用になり、おもちゃで遊ぶのも上手になったので8ヶ月頃から再び児童館に行くことにした。

 

久しぶりに行った時は、息子はまだ様子見という感じであまり動き回ることはせず、手に取ったおもちゃで遊ぶという感じだった。

ところが、次に夫が連れて行った時はどうやら様子が違ったようで、かなりはっちゃけていたようなのである。

他の子どもたちがおとなしく遊んでいる傍ら、息子は滑り台を登ったり降りたり、滑り台のてっぺんで雄叫びをあげたりと、保育士さんや他のお母さんたちから一目置かれるほどエネルギー全開で遊んでいたという。

この前に行った時からはとても想像できないことだった。

 

そして今日、私が連れて行ってみたところ……。

確かに一人だけずば抜けてはっちゃけている(笑)

 

ズンズン滑り台を登っていく様子を見た保育士さんに「ほんとに月齢合ってる?って感じだね笑」と言われる始末。

両手におもちゃを持ってカチカチしながら「うわ〜〜」と叫んでいると他の子どもたちも共鳴して叫び出したり、10ヶ月の女の子の後を追ってみたり……とにかくやりたい放題(笑)

穴にボールを入れるとクルクル回って落ちてくるおもちゃでは、初めて穴にボールを入れることができ、その瞬間、その様子を見ていた保育士さんや他のお母さんと一緒に拍手喝采

 

これだけ遊んでくれたら暑い中来た甲斐があるってもんだ。

我が子ながら息子は表情豊かでニコニコと愛想も良いのでみんなに可愛がってもらえて得な子だ。

 

とにかく今日は今までで一番児童館が楽しいと思えた日だった。

 

今日は4ヶ月の赤ちゃんが初めて来ていて5ヶ月前の息子のように、静かに仰向けかうつ伏せでおもちゃや他の赤ちゃんを見ながら過ごしていた。

その様子を見て、赤ちゃんの成長のスピードって凄まじいなと改めて実感。

息子が4ヶ月の時に来た時はちょっと早すぎたかな……と思っていたけれど、今から思えばこの5ヶ月間の劇的な成長と変化を身をもって知ることができたので、早くから連れて来ていて良かったと思った。

 

日進月歩の子どもの成長。

一瞬たりとも見逃せない。

いまやiPhoneのカメラロールは息子で溢れかえっている。

子供が寝ない時のメンタルコントロール 新月って関係あるの?

9ヶ月になる息子がいる。

 

生活リズムは大体整っているのだが、たま〜に何をしても泣いて泣いて寝ない日がある。

「断固睡眠拒否!」と言わんばかりに仰向けに置こうとするなり仰け反って泣くのだ。

 

「寝ない」というのは育児あるあるだが、理由もなくギャン泣きされ続けるとやはり堪える。

 

そんな時、何かしら「理由づけ」をしたくなるのが人間の性なのだろうか。

 

ふとカレンダーを見ると、翌日の欄に「新月」のマーク。

 

そういえば、出産は満月や新月の日に多くなるらしいと「コウノドリ」で言っていた。

私の出産は全く関係ない日だったが。

 

月経や出産など女性の営みが月の引力と関係するならば、女性のお腹から出てきて1年にも満たない赤ちゃんが月の引力の影響を受けたとしてもどことなく頷けるような気がする。

 

……なんてことを思い、「新月だから」寝られないんだね、と自分を納得させ、ガンギマリのお子を前に悟りの境地に至ったわけである。

 

そして、新月の翌日にはまたいつも通りのリズムを取り戻したようで、やはり「あながち……」と思う自分がいた。

 

一応、【新月 赤ちゃん 寝ない】でググってみたが、あんまりそれらしいページはヒットしなかったので気のせいだろう(笑)

 

基本的に科学的根拠のないスピリチュアルの類は好きではないのだが、そういうものに縋りたくなる気持ちはまぁ理解できる。

要するに、物理的にしろ、非物理的にしろ、その場から一旦離れて客観視することが大事で、そのためには多角的に物事を見ることができる必要がある。

そのために、メタ認知を持った上でメンタルを保つためと自覚しながら「利用する」分には悪くはないと思う。どっぷり浸からなければ。

 

もういいかい、もういいよ

【「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ】

俵万智さんの歌である。中学生の頃の担任が国語の教師で、俵万智さんが好きらしく、よく学級通信などに歌を載せていた。

この歌を初めて知ったとき、疑う余地なく「たしかに」と得心し、じんわりとあたたかい気持ちが広がったことを覚えている。

 

今、とある大きめの団地に住んでいるのだが、放課後の時間になるとマンションの棟と棟の間にある遊び場から子どもたちが元気に遊ぶ声がベランダを越えて聞こえてくる。

 

「みんなしゅーごー!」

と聞こえたかと思えば、かくれんぼをしているらしく、

「もういいかぁーーい」

「まぁだだよ〜」

「もういいかぁーーい」

「もういいよ〜」

という声が聞こえてくる。

 

 

 

いつの世も、どの世代にも少なからずいじめに類するものはある。

あからさまないたずらや嫌がらせであることもあれば、陰でこっそりとじわりじわりとダメージを与えていくようなものもある。

とくに近年は、SNSの利用に伴うものが増加しているというが、閉鎖空間になればなるほど周囲の目は届きにくくなるだろう。私が中高生の頃にLINEがなくてよかったと心底思う。

 

そんな中、近所から子どもたちの仲良く元気に遊ぶ声が聞こえてくると、ほっこり幸せな気持ちになる。

 

ただ、

「もういいかぁーーい」

と聞こえた後、

「もういいよ〜」

が聞こえてくるまでの少しの間に私は少々緊張する。

 

「もういいかぁーーい」

と言った子どもにとって

「まぁだだよ〜」か「もういいよ〜」

が返って来なければ、その瞬間、かくれんぼという遊びはその子どもにとってトラウマ級の経験になるかもしれないからだ。

だから、「もういいよ〜」が聞こえたときの安心感といったらない。

 

別に私自身はいじめられた経験があるわけではないが、若干HSP気味で特に聴覚面が敏感なようなので、耳からの情報により強く反応してしまうらしい。

 

何はともあれ、

【「もういいかい」と問いかければ「もういいよ」と答える人のいるあたたかさ】

を日々感じている今日この頃。

 

大学卒業するとパッタリ更新しなくなる人いるよね

私は、TwitterFacebookInstagramなどたいていのSNSには手を出している。

 

特にTwitterは高校生だった2010年3月に登録し、アカウントをいくつか増やしつつかれこれ11年も続けている。

11年も続けていると、なかなかTwitterも変化したなと思う。

変化した部分を挙げればキリがないが、広告が増えてしまったことはかなり残念である。Twitterの特徴であるリアルタイム性や素朴なつぶやきを楽しむという醍醐味を阻害されている感は否めない。

また、「お気に入り★」が「いいね♥」になってしまったときは本当にショックだった。ツイートに「よい」も「よくない」もないのだ。ユーザーがコレクションしたい、と思ったツイートをそっと「お気に入り」の箱にしまうのがよかったのに。

ユーザー数の増加で、いいねやリツイートの数がインフレした。以前は、1000のお気に入りやリツイートでも十分すごかったが、今では「バズる」といえば1万以上が当たり前である。流れてきたツイートをしっかり読むかどうか、「いいねまたはリツイートが1万以上」を無意識に基準にして決めているフシさえある。

 

と、こうした様々な変化を甘受しつつも私が今でもTwitterを最も愛しているのは、やはり140字という文字数制限と「つぶやき」という概念を気に入っているからだ。

 

ダラダラと文字を連ねられるなら、言葉を見直し厳選するプロセスは軽視されるだろう。文字数制限は、140字以内でいかに自分の考え、思い、気持ちを表現するか、という美学をユーザーに求める。よくTwitterは俳句や川柳、短歌の文化に通じるものがあると言われるが、まさにその通りだと思う。

 

そして、「つぶやく」という言葉には押し付けがましさがない。FacebookInstagramが少し苦手なのは、キラキラ、シクシク、ドロドロ・・・様々な感情を友達やフォロワーに見せつけるために投稿されていると感じるからだ。一方、Twitterのつぶやきは基本的に自己完結であり、誰かに見せつけたり反応を期待したりして投稿されたものではない。この点が両者の決定的な違いではないだろうか。もちろん、Twitterにも例外はたくさんあるが、いいねを押すことが半強制的・脊髄反射的であるInstagramとは一線を画していると考える。

 

 

今日から新年度。新生活の始まりである。

大学や大学院を卒業した人たちは、新社会人として働くことになる。

私がTwitterでフォローしている大学時代の友人などはほとんどが社会人になってしばらくすると、パッタリとつぶやかなくなってしまった。

コンプライアンス的な問題とか、単純に忙しくて時間がないとか、単調な日々でつぶやくようなことがないとか、別に誰かに知ってほしいようなことはないとか、社会人専用のアカウントを作ったとか、人それぞれ様々な事情があるのだろうが、大学時代はわりと更新していたのにパッタリと更新されなくなったアカウントをたまにフォロー一覧から覗いてみたりすると、すっかり時が止まってしまったつぶやきの累々に出会う。そして、なんだか切ないような気持ちになりつつ、皆大人になったんだね、と誰の目線だか分からないことを思ってみる。

 

これまでTwitterをやってきた新社会人の皆さんには、忙しい日々が始まると思うが、ぜひコンプライアンス的な問題には気をつけつつ、つぶやき続けていただきたい次第。

キラキラする必要がなくて、結構いいガス抜きになると思うよ。

 

猫のように生きて、桜のように散りたい

暑くもなく、寒くもなく、私の好きな季節がやってきた。

一年中、春か秋だったらいいのに、といつも思う。

春は花粉があるのでできれば3月下旬から5月下旬の気候でお願いしたい。春からは夏に向けて日が長くなり、気温もぐんぐん上昇する。そんな、ポジティブな空気に包まれる春から初夏が好きだ。

食欲・読書・運動。秋には様々な枕詞がつくが、私の場合は「キンモクセイの秋」。緑の葉の間にびっしりと咲く小さなオレンジの花から放たれるあのなんとも言えない幸せな香りをどうにかして封じ込めておきたいと毎年思う。冬に向けて徐々に寒さを増す中で切なさとともに秋の終わりを告げるのがキンモクセイだ。

 

 

猫と桜。

猫と桜はよく似合う。猫はこたつとみかんだろ、と言われそうだが、なんだかんだ言って猫は野生だから野や山を、時にのんびり、時にぴょんぴょんと歩き回っている方が似合う気がする。もちろん家の中の猫もこの上なく愛している。

猫ほど我々人間の心を掴んで離さない存在はない。飄々として誰にも媚びないが、時に甘える仕草で人間を操るあの絶妙なバランス。そっけなく見せておいて実は面倒見が良かったりする。自分が「かわいい」ということを心底理解し、その瞬間やりたいことだけをやる。まさに「自由気まま」という言葉を具現化したような存在である。

 

 

桜は一週間ほどの間に一気に咲き誇り、一気に散り去っていく。葉桜になってしまった木を見ると、取り返しのつかないことをしてしまったような、恐ろしいほどの喪失感を覚える。花ならば、もう少し長く咲いていても良いのではないか、と地団駄を踏みたくなるような気持ちにさえさせられる。

だが、桜はその一瞬の美しさに全身全霊をかけているからこそ、ここまで心を突き動かされるのだ、と言えるだろう。要するに希少価値だ。一ヶ月も二ヶ月も桜が咲いていたなら、二ヶ月立つ頃にはすっかり見慣れてしまってありがたみもなく、散ってしまっても、あぁとうとう散ったか、くらいにしか思わないかもしれない。

桜もまた、猫と同様に自分の美しさを熟知し、かつ最も愛され惜しまれる形で咲き、散っていくのだ。

 

猫と桜はあざとい。実にあざとい。

「あざとくて何が悪いの?」というテレビ番組がある。

答えは何も悪くない、だ。

唯一の注意点があるとすれば、悪意の有無だ。そこに悪意があるならば、あざとさではなく、狡猾さになってしまう。自分のためだけど誰も不幸にならない、純粋無垢、素直さが大事なのだ。

私が思うに、下手に再現ドラマを作るよりも、猫の生態を分析し、桜の美しさの理由を解析した方がよっぽど本質的なあざとさに迫れるのではないか。

 

 

猫のように生きて、桜のように散りたい。

これは数年前からの私のモットーだ。

現在までのところ、猫の生態模倣、擬態についてはおおかた成功している。これは、優しい夫の存在、専業主婦という立場により実現している。ただ、現実はそう甘くない。奨学金という足枷があるからだ。奨学金を払ってまで進学したからこそ夫に出会えたわけだからどうにかして返さねばならないだろう。人間はツラいよ…。

桜のように散るのはそう簡単ではないかもしれない。自分の死に方はなかなか選べないからだ。とりあえずできることと言えば、ありきたりではあるが、日々悔いなく、何にも執着せず生きることくらいだろうか。

 

 

―――吾輩は猫になる。名前は桜。