実る程こうべを垂れる稲穂かな

思ったことを気まぐれに書きます

猫のように生きて、桜のように散りたい

暑くもなく、寒くもなく、私の好きな季節がやってきた。

一年中、春か秋だったらいいのに、といつも思う。

春は花粉があるのでできれば3月下旬から5月下旬の気候でお願いしたい。春からは夏に向けて日が長くなり、気温もぐんぐん上昇する。そんな、ポジティブな空気に包まれる春から初夏が好きだ。

食欲・読書・運動。秋には様々な枕詞がつくが、私の場合は「キンモクセイの秋」。緑の葉の間にびっしりと咲く小さなオレンジの花から放たれるあのなんとも言えない幸せな香りをどうにかして封じ込めておきたいと毎年思う。冬に向けて徐々に寒さを増す中で切なさとともに秋の終わりを告げるのがキンモクセイだ。

 

 

猫と桜。

猫と桜はよく似合う。猫はこたつとみかんだろ、と言われそうだが、なんだかんだ言って猫は野生だから野や山を、時にのんびり、時にぴょんぴょんと歩き回っている方が似合う気がする。もちろん家の中の猫もこの上なく愛している。

猫ほど我々人間の心を掴んで離さない存在はない。飄々として誰にも媚びないが、時に甘える仕草で人間を操るあの絶妙なバランス。そっけなく見せておいて実は面倒見が良かったりする。自分が「かわいい」ということを心底理解し、その瞬間やりたいことだけをやる。まさに「自由気まま」という言葉を具現化したような存在である。

 

 

桜は一週間ほどの間に一気に咲き誇り、一気に散り去っていく。葉桜になってしまった木を見ると、取り返しのつかないことをしてしまったような、恐ろしいほどの喪失感を覚える。花ならば、もう少し長く咲いていても良いのではないか、と地団駄を踏みたくなるような気持ちにさえさせられる。

だが、桜はその一瞬の美しさに全身全霊をかけているからこそ、ここまで心を突き動かされるのだ、と言えるだろう。要するに希少価値だ。一ヶ月も二ヶ月も桜が咲いていたなら、二ヶ月立つ頃にはすっかり見慣れてしまってありがたみもなく、散ってしまっても、あぁとうとう散ったか、くらいにしか思わないかもしれない。

桜もまた、猫と同様に自分の美しさを熟知し、かつ最も愛され惜しまれる形で咲き、散っていくのだ。

 

猫と桜はあざとい。実にあざとい。

「あざとくて何が悪いの?」というテレビ番組がある。

答えは何も悪くない、だ。

唯一の注意点があるとすれば、悪意の有無だ。そこに悪意があるならば、あざとさではなく、狡猾さになってしまう。自分のためだけど誰も不幸にならない、純粋無垢、素直さが大事なのだ。

私が思うに、下手に再現ドラマを作るよりも、猫の生態を分析し、桜の美しさの理由を解析した方がよっぽど本質的なあざとさに迫れるのではないか。

 

 

猫のように生きて、桜のように散りたい。

これは数年前からの私のモットーだ。

現在までのところ、猫の生態模倣、擬態についてはおおかた成功している。これは、優しい夫の存在、専業主婦という立場により実現している。ただ、現実はそう甘くない。奨学金という足枷があるからだ。奨学金を払ってまで進学したからこそ夫に出会えたわけだからどうにかして返さねばならないだろう。人間はツラいよ…。

桜のように散るのはそう簡単ではないかもしれない。自分の死に方はなかなか選べないからだ。とりあえずできることと言えば、ありきたりではあるが、日々悔いなく、何にも執着せず生きることくらいだろうか。

 

 

―――吾輩は猫になる。名前は桜。