実る程こうべを垂れる稲穂かな

思ったことを気まぐれに書きます

慢性的思考停止の恐怖

「思考停止」

この恐ろしさを自覚している人はどのくらいいるでしょうか。

私は今まさにこの恐ろしさを身をもって体感しています。

 

私はこれまで、常に予防線を張り、苦しむことから逃げ続ける生き方をしてきました。

様々なことに対して斜に構え、「自分ごと」として考えることを避けてきたのです。

いつからこのような癖がついてしまったのかはっきりとは分かりませんが、

自分に都合の良い解釈を重ねながら自分の課題に向き合ってこなかったことだけは確かです。

 

「こんなことに何の意味があるんだ」

「こんなことやったところで」

 

こういう枕詞を使っては、逃げることを正当化してきました。

 

「思考停止」は、心が傷つかないために脳が行う防衛策なわけですが、

これがすっかり常態化し、癖になってしまったら・・・

 

最終的には

自分では何も考えられない無気力・無責任人間

のできあがりです。

 

 

自分がこれまで何事もなし得ていない、そして今後、何かをなし得そうもない、と悟った時にはすでに思考停止症候群に陥っています。

 

これではダメだ、と気づいた時には、思考停止症候群から抜け出すのにかなりのエネルギーと時間を要する状態になっています。

 

 

まぁ、まさに今の私なんですけどね・・・(笑)。

 

今の私は、自分の責任において発言したり行動したりすることに対して、すっかり臆病になってしまっています。

人前で発表したり、発言したりしようとする時、「自分のような者が言うことには価値がない」という思考回路ができてしまっていて、それが緊張に拍車をかけ、頭が真っ白になってしまうのです。

 

 

完璧主義でネガティブ、人の目を気にしがちで、過去にとらわれやすい。

白か黒かはっきりさせたくて、グレーゾーンを許容できない。

 

だけど完璧な状態なんて到底たどりつかない。

完璧な状態・・・というより、正しくは「自分が納得できる状態」かもしれません。

しかし、自分が納得できるような完璧さなど、自分自身でも見えていない状態なわけです。

 

そして、「適当」「そこそこ」という言葉で形容されるような程よい状態を作り出せないことが続くと、頭も心もすっかり疲れてしまい、

 

最初からやらなければ失敗して傷つくこともない

 

という結論にたどり着いてしまいます。

ここからの脳の甘えっぷりは見事なものです。

私は、事あるごとに失敗しそうな状況を避けていくようになりました。

一瞬の間、傷つかないために私は多くのものを失ったように思います。

まさに、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、ですね。

 

社会人になろうとしている今、未来に対して希望をもって何かを語ることができない自分がいます。

主観を持つと同時に、ブレーキがかかる状態で、何かを思考しようとすると、もう一人の自分によって非常に強いブレーキがかかるからです。

リスクを恐れて小さくまとまっている自分にイラつく時は多々ありますし、小さくまとまっていたら成長なんかできないことはわかっているんです。

 

 

もっと未来に希望をもって、楽しみをもつことができれば―――

 

 

いや、「たられば」ではダメですね。

楽しむ覚悟、「幸せになる勇気」を持つことが第一歩だと思います。

最近は、毎日のように自分の不甲斐なさと無力さに打ちひしがれ、家では泣いたり吠えたりする日々ですが、目の前の課題にしっかり向き合って、一段でも上に上がりたいと思います。