わざわざ苦労するよりも、ただ一所懸命生きること
「若い時の苦労は買ってでもせよ」
という言葉はかなり使い古されたフレーズですが、この言葉に対して皆さんはどのように感じるでしょうか。
私は違和感を覚えます。この言葉に対する解釈は様々ありますが、それぞれ理解することはできます。しかし、すっきりと納得することはできません。
そこで、この違和感の正体について、「若い時の/苦労は/買ってでも/せよ」という4つに分解して考えてみたいと思います。
「若い時の」
まず「若い」という言葉の定義を確かめてみましょう。若いというのは相対的な状態を表しています。
〈客観的な定義〉
年齢がある一定水準以下であること(身体的な若さ)
特徴:年齢が若いほど体力がある
〈主観的な定義〉
実年齢に関わらず精神的に若々しいこと
特徴:素直である、謙虚である、考え方が柔軟である
さて、この言葉が指しているのはどういう状態でしょうか。
字面だけで判断すると、ぼんやりとした基準で「実年齢の若さ」を指していると考えられます。
ここで一つ、重要な点について確認する必要が出てきます。
この言葉はそもそも、人が「成長すること」を前提としているという点です。すなわち、人は年をとるにつれて、何らかの方向に向かって変化していくことが暗に想定されています(ただし、その成長や変化の中身については人それぞれ違います)。
…とすると、成長・変化のプロセスの起点をどこに置くか、について考える必要があります。
それは10代でしょうか。
それとも20代でしょうか。
どれも違います。
答えは
「目標を定め、動き出したその瞬間」
です。つまり、実年齢は関係ありません。
年齢に関係なく、何らかの目標に向かって動いている人は、常に成長し続けています。
成長し続けているということは、その人自身は現状を成熟状態とは認識していないということです。
さらに成長するために重要な要素は、素直さ・謙虚さ・柔軟性であり、上記の定義のうちの精神的な若々しさに当てはまることが分かります。
以上より、「若い時」というのは年齢的な側面を指しているだけでなく、人の成長のファクターとしての精神的な若々しさ(目標に向かって頑張っている時期)も含んでいると言えるのではないでしょうか。
「苦労は」
苦労という言葉は主観的な言葉であり、ある状況の捉え方の一つであると言えます。大きく分けると以下の二種類があります。
- 何らかの目標を達成するために必要な努力のプロセスの中にある“しんどい”状況。自分の意思で選択した結果であり、自分のためになると考えられるもの。
- 自分の意思に反して陥っている理不尽な状況。その苦労をすることが到底自分のためになるとは考えられないもの。
両者の決定的な違いは「主体性」の有無です。
ではどちらの意味で使われているのでしょうか。
上述した通り、この言葉がそもそも人の成長を前提としていることを考慮すると、前者を指すことは自明です。
また、もし後者の状況にあるとしても見方によっては(主体性の有無によっては)前者として捉えることができるケースもあるかもしれません。
「買ってでも」
お金を出してでもやりなさい、ということですね。
ネット上で調べていると、この部分について「苦労を売る側」まで連想して「搾取を助長する」というような意見もありました。確かに、ブラック企業の幹部が社員に対してこの言葉を振りかざして働かせているとすればそれはただの乱用・悪用です。
ですが、この部分はもっとシンプルに解釈すればいいと思います。
つまり「主体性を持て」ということです。
普段の買い物を想像してみてください。
例えば食料品の買い物をする時。
買い物という一場面を切り取れば、「食材を買うこと」が目的の行為です。しかし、さらに視野を広げて何のために食材を買うのかというと、食材を使って「料理をするため」です。
すなわち、わざわざお金を出して(一見デメリットでしかない)苦労を買うということは、苦労自体が欲しいわけではなく、苦労の先に欲しいものがあるわけです。
苦労の先にあるもの(目標・目的)を見据え、自らの意思で苦労を買う。
これは主体性の発露に他なりません。
「せよ」
命令形なので強く刺さる部分ですね。ことわざは真理に近いため言い切る形なのでしょう。
ここで重要になってくるのは、「誰が」「誰に」言っている言葉なのかということです。
もし、あなたが何か大変な状況にある時にこの言葉を他人から言われたらどう感じるでしょうか。
「・・・うん、確かにそうだけど、何であなたがそれを言うの?」と思うのではないでしょうか。
そうです。 この言葉は苦労している他人に対してかける言葉ではなく、「自分が」「自分に」かける言葉なのです。
ここまでくるとゴールが見えてきますね。
要するに、(実年齢に関係なく)目標に向かって頑張っている中で一時的にしんどい瞬間に直面した時、踏ん張ってそれを乗り越えるために自分を鼓舞する言葉であると解釈すると非常に納得できます。
というわけで、この言葉に関する違和感の正体は、「主体性」の有無とこの言葉を使う主体がはっきりしていないことでした。
この言葉を字面だけ真に受けてしまうと、苦労することが目的となってしまいます。しかし、苦労はプロセスであり、主観的なものであり、手段に過ぎません。
ですので、まずは自分がどう生きたいか、どうありたいかという軸を持つことが大切です。
軸さえ見失わなければ、表面的なことには惑わされなくなります。
人生はシンプルです。
ただ、真摯に目の前の課題に向き合い、一所懸命生きること。
この継続があなたの人生を形作ってゆくのです。