「何のために生きるのか」徹底的に考えたことがありますか
皆さんは何のために生きていますか。
何のために生まれてきたのだと思いますか。
私は、自分は
「幸せになるため」に生まれ、生かされている
と思っています。
では、「幸せ」とは何でしょうか。
「幸せ」=「幸せだと思うこと、感じること」
ではないでしょうか。
「幸せ」とは主観にすぎません。
お金や地位など、定量的・客観的な指標で測れるものではありません。
たとえどんな状況にあっても、私が「幸せ」だと思えば「幸せ」なのです。
物事は受け取り手次第でどのようにでも解釈できます。
一度しかない人生。私にしか生きることのできない私だけのオーダーメイドの人生。
どうせ生きるなら「幸せ」に生きたくありませんか。
生きるのが辛いという人は、実は本人が「辛いと思いたいから」物事を辛いと思うように解釈しているだけなのです。
同じ状況にあっても、「チャンス」と捉える人もいるかもしれません。
厳しい表現かもしれませんが、まずはこの事実を受け止めない限り、その人はずっと不幸の渦の中を生きていくことになります。
幸せになる決意をすること。一歩踏み出す覚悟を持つこと。
最も大切なことはこれだけです。
決意をし、覚悟を持った瞬間から人は変われます。
人が変わるための方法は無数にあり、しかも一人ひとり違います。
したがって、変わるための方法に気づき、取り入れ、努力するために最も大切なのは、「変わると決意する最初の一歩」に他なりません。
親であろうが恋人であろうが、他人は関係ありません。
あなたの人生はあなたにしか生きることはできませんし、誰も責任をとってはくれません。
どこかの誰かが言った「こうあるべき」という基準(呪縛)に従って生きる必要性などこれっぽっちもないのです。呪縛から解き放たれた時、あなたは本当の意味での「自分の人生」を歩むことができるようになります。
もっとあなた自身の幸せに貪欲になっていいんですよ。
あなたが幸せであることは周りにとっても幸せの一つなのですから。
恋の終わりはあっけなく
先日、3年5か月付き合った恋人と別れました。付き合っていた期間の大半は遠距離恋愛でした。
これまで、お互いにいつか結婚するのだろうなと思っていました。
しかしダメな時はダメなもんですね(笑)
原因は遠距離恋愛ではありません。
もっと本質的なことが原因です。
別れた直後は理性が勝っていたため余計なことを考えずに済んでいたのですが、時間が経つにつれてジワジワと色々なものが込み上げてくるようになりました。一旦整理できていた(と思っていた)気持ちも実はぐちゃぐちゃしていて、「実は自分、結構傷ついているのかもしれない」と気づき、少しずつ労ってあげようとしています。
目の前にはやるべきことがあります。だから、それに集中していればそのうち薄れていくのだろうとは思います。
ただ、モヤモヤとしている部分を無理やり押さえ込めば後々爆発するのだろうとも思うのです。
だから今、きちんと感情と向き合って整理することで次に進む準備をしたいと考えています。
別れる瞬間に思ったことは、「終わる時ってこんなにあっけないんだ」ということです。
あっけない。
・・・つまり、それだけ「脆い」繋がりだったということです。
彼との関係を一言で言うと、
「付き合う」だけなら良いけれど「結婚する」のは難しい
という関係でした。理由や事情は色々ありますが、ここでは細かいことは大した問題ではないので置いておきます。
少し前にゼクシィのCMの言葉が話題になっていましたが、まさにその通りだと思います。
結婚しなくても幸せになれるこの時代に、わざわざ結婚するのは何のためか。
誰しもがしっかりと考えなければなりません。
「結婚」なんて単なる紙一枚の契約であり、その後何十年と続く共同生活のスタート地点に過ぎません。
何十年と続く共同生活に対して生半可な覚悟しか持ち合わせないまま結婚し、これまた簡単に破綻するケースがどれだけ多いことか。
別にこのような人たちを否定したり責めたりしたい訳ではありません。そんな資格、私には毛頭ありませんしね。
しかし、もっとよく考えた方が良いと思うのです。
たった一度の人生。有限の時間。大切な時間。
貴重な自分の人生をどう生きるのか。
何のために生きるのか。
今付き合っている(または付き合おうとしている)目の前の相手は、自分の時間を少しでも割くに値する人物なのか。
また、「結婚しなくても幸せになれる」というのはものすごく鋭い言葉です。
ゼクシィのCMは「結婚しなくても幸せになれる時代」となっていますが、そもそもこれは時代は関係ありません。
結婚したら幸せになれると思っていることの方がおかしいのです。
自分のことは自分が幸せにするものです。誰かに幸せにしてもらうというのは筋違いです。
自分自身が満たされて初めて、自分の愛情の器から溢れてくるものを他者に分け与えることができるのです。
自分自身が満たされないまま他者に分け与えようとすると、必ずその見返りを求めることになります。
それは愛ではありません。
まず、一人で立って歩くこと。
誰かに寄りかかったり寄りかかられたりするのではなく、一人で歩けること。
これが大前提です。しかし、これは天涯孤独で生きよという意味ではありません。自分軸で生きているという意味です(自分軸についてはまた別の記事でも触れます)
一人で立って歩ける者同士が同じ方向を見て隣を歩くことで、より幸せになれると思った時、人生を共に歩む選択(結婚)をするのだと思います。
寄りかかりあうのではなく、寄り添う。
寄り添うという表現が一番しっくりきますね。
相手の生き方を尊重し、見守り、助け合う。
この観点から言うと、少なくとも現時点の彼は私の結婚相手としては不適格でした。
これは彼から見た私もそうです。
端的に言えば、私と彼は見えている世界がズレていました。
世界観があまりにもかけ離れている相手と一緒にいることはお互いにとってしんどいことです。
実は、付き合い始めた頃からこのズレを何となく感じてはいました。でも、それが決定的に発露するような場面には出くわしていなかったのです。
なので、お互いに自分の本質的な部分でぶつからずにここまでやってきてしまいました。
ここまでの文面で多少伝わっていることと思いますが、ぶっちゃけ私はかなり意志が強い方なので、彼との関係を維持するために自分の意志に反して折れるようなことはしません(笑)
むしろ本当に私と結婚したければ、彼が彼の意志で私に合わせる必要があると思っています。そんなに私は安くないので(笑)
ここら辺は恋愛技法の話になるのでまたの機会に譲ります。
とにかく私は、
何のために生きるのか
どう生きるのか
自分の心は何を求めているか
ということを事あるごとに考えます。これがあらゆる選択の基礎になっています。
皆さんは何のために生きていますか。
どう生きたいですか。
心は何を求めていますか。
これは恋愛だけでなく、仕事などを含めた人生の全てに関わる課題です。
一度立ち止まって考えてみると、世界の見え方が少し変わるかもしれません。
長くなったので今回はこの辺で。
【追記(2022年6月30日)】
こんな大層な記事を書いておきながら見事に元鞘に戻り、結婚し、子供まで産まれました。
ほんと人生何が起こるか分かりませんね。
お恥ずかしい限りですが、この時の気持ちも決して嘘ではないので恥を忍んでインターネットの海に放流させておきます。